いわき市と郡山市
今日のアルバイトの現場は郡山市内でした。今まで、いわき市が多かったため、両市の違いについて改めて考えました。
私は、東日本大震災後に20年振りに東京圏を離れ、故郷・福島県に戻り、いわき市に住んで復旧・復興の仕事をしました。いわき市はかつて日本一の面積(市部)を持ち、仙台市に次いで東北で二番目に人口の多い都市で、私は地方の中核都市というイメージを持って乗り込みましたが、住み始めると“連合都市”である事を実感しました。
いわき市は1966(昭和44)年に5市4町5村が“大合併”して成立しました。しかし、平地が少なかったこともあってか市街地の集積は進まず、平と小名浜の二大繁華街が共存し、そこに湯本、勿来など旧市中心地が一定の街を形成していました。平や小名浜などに近い住宅開発は山を切り崩して行われていて、坂道を登るとニュータウンが広がる光景があります。
少子高齢化・人口減少の中、いわき市は平と小名浜の“二大都市”を中心に都市機能を維持させ、必要に応じてインフラ維持経費削減のためにコンパクトシティ化を進めてゆくと思われます。ただ、広大な市域と丘陵部が多い地理的制約でいわき市は難しい行政運営をすることになるかもしれないと私は考えています。
他方、福島県の中心地にあり、いわき市に次ぐ東北第3位の人口規模と工業製品出荷額を持つ郡山市は、1965(昭和40)年に郡山市を中心に1市5町7村が合併したため、郡山旧市街地(郡山駅)を中心に、同心円状に都市が発達しています。中心部の空洞化や空き家問題もありますが、城下町でなかった事もあり、環状線と放射線に伸びる道路が整備され、灌漑施設と安積疎水関連の水辺がもたらす多くの公園など、都市機能に優れています。私は郡山市に住んで7年目を迎えましたが、都市として、住む場所としての良さを思い、可能性を実感しています。
郡山市は、かつて市部のコメの生産量が日本一だったこともあり圃場整備された広大な田園が広がり、それ取り囲むように広がる野菜畑や果樹園は、農業の可能性を示してくれます。平地が多いため宅地開発の余地もあり、鉄道沿線を開発することにより高齢者や移住者が移動の心配なく過ごせる住環境を整備するこも可能です。
そして、郡山市が最も恵まれているのが、立地です。東京圏と仙台を結ぶ東北新幹線・東北道上にあり、距離も適度に離れています。磐越道の開通により新潟市といわき市を産業の視点に組み入れる事ができ、公的・民間投資を呼び込む魅力があります。
人口減少の中、郡山市はコンパクトシティ化をする場合、他都市に比べ進めやすい環境にあり、この点でも持続的成長が可能な都市の要件を満たしていると私は考えています。
全国の各都道府県が人口減に対する策を練っていますが、私は福島県は中心地・郡山市と港湾都市・いわき市にヒト・モノ・カネを集中させてゆくことになるだろうと思います。郡山市が中通りと会津全域を巻き込み“100万人産業都市圏”を、いわき市が浜通りのみならず茨城県北部を巻き込み“70万人産業都市圏”を中心となって形成すれば、福島県は人口減に打ち克ち、県民の活力保ってゆけるのではないか、と私はイメージしています。今後、研究調査を通して、この可能性を確認してゆきたいと考えています。
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東日本大震災8年と政治の不在
東日本大震災から今日で8年を迎えました。
地元紙のみならず、全国紙でも一面で報じられていました。
故郷・福島県に戻り8年を過ごして思うのは、復旧されぬままの“復興”の喧伝と、“復興”という言葉の一人歩きです。
復興とは復旧があってこそのものだと思います。しかし、福島第一原子力発電所は冷温停止状態であるものの、増え続ける汚染水や未だ正体がつかめぬ燃料デブリなど復旧とは言えぬ状態が続いています。そして、この原子力災害によるものが大半を占める避難者数が約4万2千人と低値で固定化しつつある風評被害も、復旧という言葉でさえも使うのが躊躇われます。
しかし、沿岸部で進められた長大な海岸堤防・防災林や災害公営住宅、帰宅困難地域に設置される特定復興再生拠点などの土建構造物の整備をもって“復興”が強調されています。
そして、これらは映像などに使われ、“復興”という文字と共に県民や国民に提示され続けています。
福島県では復旧と復興に断絶があり、多額の予算がつぎ込まれている土建構造物によって、県民の営みが再生され子や孫の世代に続くものになるとはイメージしづらい状況にある、と私は感じています。
また、福島県では政治の不在も感じられます。
復旧が復興に繋がる、という青写真は行政が住民に示してゆきますが、県内の自治体にはその余裕がありません。多額の復興予算の割り当てや執行、チェックから、東京電力㈱に対する賠償請求、原子力災害に関する住民からの問い合わせ対応などを処理しながら、通常業務を担う行政官には多大な負担が掛かっています。
このような状況では、政治家(議員)の役割がますます大きくなっていると私は考えます。行政が及ばない住民への説明や、各自治体の将来像を語り、復興に対する住民の役割を知らせるなどを議員が行う事で、復旧と復興が一連の流れとなり、社会に浸透すると私は思います。
しかし、その役割を果たしている議員、特に福島県の看板を背負った福島県議は数少ないと私は理解してます。ホームページに記載されている県議会の議決内容をなぞるような政策ビラや個人サイトでは、住民の理解は深まりません。
政治家は言葉でその職責を果たすところが多いです。言葉を出さず、暗躍する政治家は高度成長期で分配が機能していた時代でその役割を終えています。少子高齢化と地域の疲弊に重なった東日本大震災と東京電力㈱福島第一原子力発電所事故からの復興には、不確定な現在を説明し、未来を指し示す言葉が必要です。そして、その言葉に職責を掛けて責任を果たす事ができる政治家が役割を果たす必要があると私は思います。
政府の「復興・創生期間」は2020年3月で終わります。その後、復興庁の後継組織を含め、政府が被災地にどのように関わってゆくのか不透明です。政治が機能せず、政府の後ろ盾が弱まるとするならば、福島県の復旧・復興・再生への歩みは力強さを失い、人口流出に拍車がかかり、社会の活力は減衰してゆくでしょう。
そうならないために、福島県に関わる政治家、特に福島県議には尽力、奔走して欲しいと思います。
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東京大空襲から74年、戦争を引き起こさせない政治文化
東京大空襲から74年を迎えた今日、東京都庁では空襲を経験された方やその家族約400人が出席した追悼式典が開かれたといいます。私も福島の地から冥福を祈りました。
先日、被災した東京の復興に尽力した後藤新平に関する本を読みましたが、そこで描写される東京大空襲の凄惨さに、改めて戦争の無慈悲と非人間性を思いました。
太平洋戦争開戦前、日本は米国との物量の差を認識し、“必敗”を予測していました。
それでも、なぜ軍部や政府は戦争遂行を止めず、戦域まで拡大し、犠牲者を増やしていったのか。私たち、戦争を知らない世代は考えを深めなければならないと思います。
戦前、大日本帝国では明治維新後の藩閥政治が中心で、民衆の“ガスを抜く”ために容認した政党政治も名ばかりで、普通選挙も実施されていない事もあって民主政治は機能していませんでした。過度な中央集権体制は情報が民衆に下りる事を許さず、そのため民衆も情報を元に地域社会や行政政治を考える機会を奪われ、結果『お上のいう事ならば...』という文化が創られました。第二次大戦中の「大本営発表」を不信に思い、民衆も激しいデモを起こす事もなく、軍部と政府は空虚な作戦を顧みらされる事無く続ける事が可能になりました。
私は、戦争を引き起こさせないためには、まず子供たちに「飢え、凍え、学ぶ機会の喪失」を与えず、大人には「仕事」を用意する必要があると私は考えてます。
そして、開戦と戦争遂行という大きな政治決定と行政に対して民衆がモノを言える政治文化の醸成が欠かせないと思います。
政治文化とは、議員となる候補者選定や選挙だけではなく、様々な社会的行政的な課題に対して選択肢を挙げ、議論し深め、民衆の一人一人が意思を持つことが基本となります。そして、その意思を選挙や集会、デモなどで表現したり、社会参加を通してよりよき社会の実現のために活動してゆく、この連綿と続く行為の総体が政治文化だと私は考えてます。これを一部の政治関係者だけではなく、地域社会に空気のように浸透させてゆくことで、政治文化は醸成され、戦争状態に陥る以前に、平和に向けた外交努力や世論の形成が強力になされると思います。
以前、ある国会議員と話をした時、氏は『私が政治家になったのは戦争を起こさないため』と言われました。裏を返せば、戦争の引き起こすのは政治家だとも言えます。この政治家を選び出す事を一つの機能としている政治文化が豊かになれば、私は国家が戦争に突き進むことは無いと考えます。
私は政治に関わる事を生涯の活動とした以上、地域社会の政治文化の創出と醸成に関わり、戦争を引き起こさない為に行動してゆきたいと思います。
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