ジャスト日本です。
「人間は考える葦(あし)である」
これは17世紀 フランスの哲学者・パスカルが遺した言葉です。 人間は、大きな宇宙から見たら1本の葦のようにか細く、少しの風にも簡単になびく弱いものですが、ただそれは「思考する」ことが出来る存在であり、偉大であるということを意味した言葉です。
プロレスについて考える葦は、葦の数だけ多種多様にタイプが違うもの。考える葦であるプロレス好きの皆さんがクロストークする場を私は立ち上げました。
さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開し、それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。
5回目となる今回はプロレス格闘技ライター・堀江ガンツさんとスポーツ報知編集委員・加藤弘士さんの同世代対談をお送りします。
堀江ガンツ
1973年、栃木県生まれ。プロレス格闘技ライター。
『紙のプロレス』編集部を経て、2010年よりフリーとして活動。『KAMINOGE』、『Number』、『昭和40年男』、『BUBKA』などでレギュラーとして執筆。近著は『闘魂と王道 昭和プロレスの16年戦争』(ワニブックス)。玉袋筋太郎、椎名基樹との共著『闘魂伝承座談会』(白夜書房)。藤原喜明の『猪木のためなら死ねる』(宝島社)、鈴木みのるの『俺のダチ。』(ワニブックス)の本文構成を担当。ABEMA「WWE中継」で解説も務める。5月31日には構成を担当した前田日明・藤原喜明著『アントニオ猪木とUWF』(宝島社)が発売される。
[リリース情報]
5月31日に宝島社から『アントニオ猪木とUWF』(前田日明、藤原喜明著/堀江ガンツ構成)が発売。
UWF設立から40年――猪木とUへの鎮魂歌。YouTubeでも話せない二人だけが知る濃厚秘話対談集。
加藤弘士(かとう・ひろし)
1974年4月7日、茨城県水戸市生まれ。茨城中、水戸一高、慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、1997年に報知新聞社入社。6年間の広告営業を経て、2003年からアマチュア野球担当としてシダックス監督時代の野村克也氏を取材。2009年にはプロ野球楽天担当として再度、野村氏を取材。その後、アマチュア野球キャップ、巨人、西武などの担当記者、野球デスク、デジタル編集デスクを経て、現在はスポーツ報知編集委員として、再びアマチュア野球の現場で取材活動を展開している。スポーツ報知公式YouTube「報知プロ野球チャンネル」のMCも務める。
『砂まみれの名将』(新潮社)
阪神の指揮官を退いた後、野村克也にはほとんど触れられていない「空白の3年間」があった。シダックス監督への転身、都市対抗野球での快進撃、「人生最大の後悔」と嘆いた采配ミス、球界再編の舞台裏、そして「あの頃が一番楽しかった」と語る理由。当時の番記者が関係者の証言を集め、プロ復帰までの日々に迫るノンフィクション。現在7刷とヒット中。
今回のお二人の対談のテーマは「俺たちの全日本プロレス論」です。
全日本との出逢い、語りたい選手と名勝負について二人のプロレス者が熱く語ります!こちらがこの対談のお品書きです!
(主な内容)
1.全日本プロレスとの出逢い
2.『全日本プロレス中継』(日本テレビ系)の魅力
3.二人が語りたい全日本プロレス選手(日本人・外国人問わず)
4.二人が好きな全日本プロレス名勝負
5.あなたにとって全日本プロレスとは?
『闘魂と王道』著者であるガンツさんと『砂まみれの名将』著者である加藤さんの対談は抱腹絶倒で大いに盛り上がりました!
この二人の掛け合いがまるで深夜ラジオ番組のようでした。主に1980年代から1990年代の全日本プロレスをテーマにしたディープでクレイジーでファンタスティックな内容になっております!
二人のプロレス者による狂熱の対談、是非ご覧下さい!
プロレス人間交差点 堀江ガンツ☓加藤弘士 前編「俺たちの全日本プロレス論」
プロレス人間交差点 堀江ガンツ☓加藤弘士 中編「全日本は夢のあるファンタジー」
プロレス人間交差点
「活字プロ格の万能戦士」堀江ガンツ ☓「活字野球の仕事師」加藤弘士
後編「世界を教えてくれた俺たちの全日本」
二人が語る全日本プロレスの名勝負①
「今までの人生で一番興奮した試合がファンクスVSブロディ&スヌーカ」(加藤さん)
「その頃に僕は『太陽戦隊サンバルカン』を見るのをやめて『全日本プロレス中継』に釘付けになってました」(ガンツさん)
──全日本プロレスをテーマにしたこの対談、大いに盛り上がってきましたが、ここでお二人が語ってみたい全日本の名勝負をあげてください。
加藤さん ベタで申し訳ございませんが1981年12月13日・蔵前国技館で行われた『世界最強タッグ決定リーグ戦』公式戦のザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク)VSブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカですね。当時新日本の最強外国人レスラーだったスタン・ハンセンの乱入しかり、ファンクスの絶対的ベビーフェース感とか、全日本の魅力がこの一戦に凝縮されたような試合でした。外国人同士のタッグマッチがビッグマッチのメインイベントというのは全日本らしくて、新日本では有り得ないですよね。今までの人生で一番興奮した試合がファンクスVSブロディ&スヌーカだったのかなと思います。
──試合中盤にハンセンが場外でテリーにウエスタン・ラリアットを見舞って、ドリーがブロディ&スヌーカの攻撃を10分近く耐えきるという試合展開でしたね。
加藤さん いいですよね。あと情報があまり発達していないので試合結果とかを知らなくてテレビで視聴できたのも大きかったです。
ガンツさん あらためて映像を見返すと、ドリーのローンバトルがめっちゃ長いんですよね。今のプロレスだとハンセンがテリーに場外でラリアットを放ってから1分くらいで試合は決着してますよ。
──全日本はそういう傾向がありますよね。1991年『世界最強タッグ決定リーグ戦』三沢光晴&川田利明VSテリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムスでも試合中盤に三沢さんがゴディ&ウィリアムスの合体パワーボムを場外で食らって動けなくなってから、川田さんがゴディ&ウィリアムスの猛攻を5分以上耐え忍ぶという展開がありました。
ガンツさん そして、あの試合に関してはテリーのカムバックが遂になかったんですよ(笑)。
加藤さん ハハハ(笑)。
ガンツさん そこにまたリアリティーがあるんです。
──試合後にハンセン、ブロディ、スヌーカがドリーをボコボコにする中で馬場さんと鶴田さんが救出して、馬場さんがハンセンと激しくやりあうというシーンがありましたね。
加藤さん To Be Continuedですよね。「1982年の全日本は面白いことがたくさんあるよ!」という壮大な予告編だったように感じました。
ガンツさん その頃に僕は『太陽戦隊サンバルカン』を見るのをやめて『全日本プロレス中継』に釘付けになってました。
加藤さん 『太陽戦隊サンバルカン』よりもハンセン、ブロディ、スヌーカですよね!
二人が語る全日本プロレスの名勝負②
「鶴田VS天龍は僕の少年時代の真の日本人頂上対決というか、勝敗や試合内容、時流とかも含めてすべてが合致した最高の試合」(ガンツさん)
「ファンは鶴龍対決への期待感が高いのに、その期待を上回るものがリング上で展開されたのが凄かった」(加藤さん)
──ありがとうございます。ではガンツさん、お願いいたします。
ガンツさん 僕は1989年6月5日・日本武道館で行われたジャンボ鶴田VS天龍源一郎の三冠ヘビー級選手権試合です。僕らの世代はアントニオ猪木VSストロング小林とかリアルタイムで見てないじゃないですか。だから僕の少年時代の真の日本人頂上対決というか、勝敗や試合内容、時流とかも含めてすべてが合致した最高の試合だったと思います。
加藤さん ファンは鶴龍対決への期待感が高いのに、その期待を上回るものがリング上で展開されたのが凄かったですよね。
ガンツさん 当時はまだピンフォールやギブアップ決着が珍しい時代だったので、1987年に起こった天龍革命以後の鶴龍対決も最初の二戦は天龍さんが勝っているんですけど、リングアウト勝ち(1987年8月31日・日本武道館)と反則勝ち(1987年10月6日・日本武道館)。三戦目(1988年10月28日・横浜文化体育館)は鶴田さんの反則負けで、ものすごいいい試合だったのに不透明決着だったのでお客さんが怒っちゃったんですよ。その時期からお客さんは「いつまでも不透明決着は許さないぞ」という風になって。
加藤さん 確かにありましたね!
ガンツさん 四戦目(1989年4月20日・大阪府立体育会館)は鶴田さんのパワーボムが垂直落下気味で決まり天龍さんが失神して、アクシデント的にピンフォール負けをしてしまうんです。これまでの鶴龍対決は天龍に人気が集中していました。でもあの失神があって「どうなるんだ⁈」という追い込まれた天龍さんと「鶴田、オー!」ブームに乗って人気が出てきた鶴田さんが武道館で雌雄を決するというシチュエーションがこの三冠戦ですよ。
加藤さん 素晴らしいですね。当時の世界情勢も東欧が民主化されていて、プロレスに関しても「俺たちがみたいものはこういう試合なんだ!」というファンの想いと時代背景がリンクしていて、リング上の光景が政権交代のようなダイナミズムのように劇的に変わっていく過程が見れたのは尊い時間ですよね。
──しかもこの試合は両者共に評価が上がったんですよね。鶴田さんは「怪物」と呼ばれる圧倒的実力を発揮して、天龍さんは鶴田の猛攻を受け止めてきちんとパワーボムでピンフォール勝ちを収めたんですよ。後に「名人戦」と形容されていましたが、鶴龍対決は馬場さんが描いていた「心・技・体」が揃ったスーパーヘビー級同士の理想の闘いだったと思います。
加藤さん 鶴龍対決は長州力VS藤波辰爾とは違った日本人対決なんですよね。
ガンツさん 僕の中では長州VS藤波の名勝負数え歌は、あの鶴龍対決を見てしまうと一旦、霞ましたね。体のサイズ含めて迫力が違ったので。
加藤さん 鶴龍対決が乱発するようになったのがきっかけで天龍さんが全日本の姿勢に疑問を呈するようになったという説があります。
ガンツさん 日本武道館での鶴龍対決は1989年6月5日がラストなんですよ。その後の鶴龍対決は1989年10月9日、1990年4月19日にいずれも横浜文化体育館で行われた三冠戦で鶴田さんが勝利しています。
──10月の三冠戦では鶴田さんのウラカン・ラナが決まり手だったんですよ。天龍さんの新型パワーボム(相手の両太ももを下から抱えてからのパワーボム)を切り返して。
ガンツさん 新型パワーボムってありましたよね。あと僕の名勝負ナンバーワンが鶴田VS天龍なんですけど、全日本ベスト興行も1989年6月5日・日本武道館大会なんですよ。カンナム・エクスプレスがフットルースを破ってアジアタッグ王者になったり、スタン・ハンセン&テリー・ゴディVSブリティッシュ・ブルドッグス(ダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミス)、スティングVSダニー・スパイビーという外国人同士の好カードが組まれたんですよ。
加藤さん スティングの存在がちょっとしたスパイス感があって武道館大会に彩りを提供したような気がしますね。
ガンツさん ロード・ウォリアーズ以来の「みんなが見たい外国人レスラー」がスティングだったと思います。あと世界ジュニアヘビー級王者になった百田光雄さんが寺西勇さんを相手に防衛戦が行われて、つい2カ月前までは百田ブームだったのに、会場は「寺西」コールに包まれました(笑)。ファンは長年ずっと第1試合を務めていた百田光雄を勝手に後押ししていたけど、いざ本当にジュニア王者になったら、潮が引くように「百田」コールがなくなるって、ファン心理はなかなか残酷ですよ。
今と昔のファンの違い
「今は提供されたものに対して文句を言ってはいけないとか、絶賛か批判の二極化という風潮があるじゃないですか。でもあの頃のファンは『もっといいものが見たい』『もっとプロレス界がよくなってほしい』という想いで言っていたように思います」(ガンツさん)
「ファンと団体とのキャッチボールがうまくリングに反映していて、珠玉のプロレスで熱狂させていたのが『俺たちの全日本』なんですよ」(加藤さん)
──百田さんが王者になったことでファンは満足してしまったんでしょうね。
ガンツさん しかも百田さんが世界ジュニアヘビー級王座を獲得したのは後楽園ホールで取ればいいのに、大阪府立体育会館だったんですよ。
──1989年4月20日・大阪府立体育会館で百田さんは仲野信市さんを破り、第8代世界ジュニアヘビー級王者に輝きました。
ガンツさん 渕正信さんが仲野さんに敗れて王座陥落をして、その仲野さんを百田さんが破って王者になったのですが、後楽園ホールのファンからすると、百田の王座奪取というクライマックスを「百田」コール発祥の地である後楽園じゃなく大阪でやられたことで冷めちゃったんだと思います。
加藤さん 民意が反映するリングになったからこそ「俺たちの全日本」になったんでしょうね。
ガンツさん 当時の熱心なファンって、今でいうディスりではなく建設的に自己主張していたんですよ。なにか今は提供されたものに対して文句を言ってはいけないとか、絶賛か批判の二極化という風潮があるじゃないですか。でもあの頃のファンは「もっといいものが見たい」「もっとプロレス界がよくなってほしい」という想いで言っていたように思います。
加藤さん なんか理想の民主主義社会ですね。ファンの声を受けて、いいものをリングで見せて「どうだ!」とファンにお返しをしているんですよ。ファンと団体とのキャッチボールがうまくリングに反映していて、珠玉のプロレスで熱狂させていたのが「俺たちの全日本」なんですよ。
ガンツさん そういう関係性が出来ていたからこそ1990年に全日本が大量離脱が発生して、メガネスーパーという巨大企業がバックについたSWSに移籍したとしても「オー!」や「オリャ!」を言って、半ば茶化していたファンたちが「今こそ俺たちが全日本を支えなきゃいけない!」と立ち上がって全日本を支持したんですよね。
加藤さん 天龍さんが全日本を離脱した後の1990年5月14日・東京体育館はテレビで見ていてとてつもない寂しさを感じましたね。しかもあのギュッとした後楽園ホールや日本武道館じゃなくて、ちょっと寒々とした東京体育館だったので余計に…。
ガンツさん 東京体育館はアリーナ部分が広すぎるんですよ。どうしても武道館や両国みたいな凝縮した空気になりにくい。
加藤さん しかもメインイベントで馬場さんが怪我してしまうし、三沢さんがタイガーマスクの仮面を脱いで新しい時代到来を予感させたのですけど、事前に週刊プロレスの表紙で「新生・東京体育館進出」みたいなものを煽っていて期待したのですが、残念ながら興行がこけてしまったような気がしますね。ファンは「全日本は今後、どうなってしまうのか」という不安を抱いたと思うんですけど、今考えるとその辺の危機感をファンに共有させたというのは面白い現象ですよね。
──結果的にそういう面白い戦略になってしまったのかもしれませんね。
ガンツさん 本当に全日本は終わってしまうとファンに思わせましたから。
加藤さん 毎週、週刊プロレスを読むたびに離脱者のニュースばかりで、みんなSWSに移籍するんですよ。だから当時は「全日本は崩壊するかもしれない」という切実な問題として考えてました。
ガンツさん 本当に危機感はありましたよね。
──それだけ全日本の中心人物だった天龍さんの離脱はあまりにもインパクトが強かったんですね。
ガンツさん あの時の天龍さんは実力も人気も絶頂期でしたよ。
加藤さん 辞める直前の1990年4月12日・東京ドームで行われたランディ・サベージ戦なんてベストバウトですよ。若林健治さんの実況にありましたが「イカ天とはイカす天龍のことであります!」なわけですから、その人が団体を辞めてしまうんですよ。 1989年~1990年のプロレス界におけるダイナミズムってものすごいですよね。
ガンツさん 特に1990年の正月から春ぐらいまでがもう激動すぎるんですよ。
──1990年は新日本の2月10日・東京ドーム大会で新日本VS全日本の驚天動地の対抗戦が組まれましたよね。
ガンツさん あの新日本VS全日本が見られた東京ドーム大会は、会場で観戦したながら「人生最良の日だ」と思いましたよ。まだ高校1年でしたけど(笑)。こんな幸せな日がくるのかと。そしてさらに4月12日には全日本、新日本、WWFの三団体で『日米レスリングサミット』が東京ドームで開催されて、「こんなに立て続けに夢が実現していいのだろうか」とさらに幸せな気持ちになっていたら、SWS騒動があって冷や水をぶっかけられたという感じでしたね。
加藤さん 週刊プロレスが「ベルリンの壁、崩壊」とか煽るじゃないですか。あとSWS騒動時に編集長のターザン山本さんがSWSのネガティブキャンペーンを展開したことも、最近はその裏側も知れるようになりましたけど、あの頃のプロレス界の動きとかすべてが愛おしいんです。プロレス界に莫大な資金を投じてくれる大企業はもちろん大事にしないといけないんですけど、「いや、俺たちは違うんだ」という姿勢を示し「金権プロレス」というコピーをつけた山本さんも強烈だったし、ファンの「俺たちが全日本を支える」という想いもあって青春感がありましたね。
ジャイアントサービスのTシャツの話!
「鶴田さん、馬場さん、三沢さんのTシャツを買って、体育の授業で誇らしげにペラペラ素材のTシャツを着用してました」(加藤さん)
「僕もブリティッシュ・ブルドッグスのTシャツを制服のYシャツの下に着て、背中にうっすらとユニオンジャックが見えてました」(ガンツさん)
──青春感とは言えて妙ですね!
加藤さん 思えばあの頃、ジャイアントサービスもTシャツの品数が増えて、鶴田さん、馬場さん、三沢さんのTシャツを買って、体育の授業で誇らしげにペラペラ素材のTシャツを着用してましたね。
ガンツさん 僕もブリティッシュ・ブルドッグスのTシャツを制服のYシャツの下に着て、背中にうっすらとユニオンジャックが見えてました(笑)。
加藤さん おしゃれですね!あとロード・ウォリアーズのTシャツを着て、その上にYシャツで学生服という服装だったら、中学校の先生に「その中に着ているTシャツは何だ⁈」と言われて「ロード・ウォリアーズです!」と答えたら「何!!暴走族か!」とぶん殴られたことを記憶してます(笑)。
──ロード・ウォリアーズは「暴走戦士」なので暴走族ではありますね。
ガンツさん 間違ってはいないですね(笑)。
加藤さん 僕は「先生、知らないなぁ~。ロード・ウォリアーズは暴走戦士だぜ!」と思ってました(笑)。
あなたにとって全日本プロレスとは!?
「世界です。全日本を通じてアメリカを知り、ミズーリ州を知り、ミズーリ州ヘビー級王座はNWA世界ヘビー級王座の登竜門だと。日本以外に目を向かわせるきっかけになったのが全日本でした」(加藤さん)
「僕のベース。ライターという仕事においても、ファンとしてのベースは全日本にあるんです。後年、僕はリングスが大好きになるんですけど、なぜ好きになったのか。あれは全日本の世界観なんですよ」(ガンツさん)
──ありがとうございます。この対談の最後のお題に進みたいと思います。あなたにとって全日本プロレスとは何ですか?
加藤さん 全日本プロレスは…世界です。全日本を通じてアメリカを知り、ミズーリ州を知り、ミズーリ州ヘビー級王座はNWA世界ヘビー級王座の登竜門だと。日本以外に目を向かわせるきっかけになったのが全日本でした。鶴田さんがAWA世界王者になってアメリカをサーキットする光景をテレビや週刊プロレスを通じて知ることができました。新しい外国人レスラーが来ると、彼らのプロフィールやルーツ、タイトル歴を調べるのが僕のルーティンでした。こんな地球の裏側から太平洋を往復して水戸市民体育館に行くと世界から集結した外国人レスラーたちに出逢えたわけですよ。
──確かにそうですよね。
加藤さん 僕にとって全日本で味わったワクワク感やドキドキ感の記憶は永遠に続くものなんですよ。世界タイトルを取ることは至難の業であることも全日本で学べて、三本勝負で一本目をとっても、その後両者リングアウトや反則裁定になって、NWAルールでタイトルが移動しないという理不尽さも「世界は手強い。甘くないぞ」というメッセージが籠っていたように感じました。全日本は世界を教えてくれて、今の自分に繋がる広大で幅広い世界観を抱かせてくれたように思います。
──ありがとうございます。ガンツさん、お願いいたします。
ガンツさん 僕も加藤さんと同じような感じですね。あんなインターナショナルなジャンルはなかったですから。全日本プロレスは…僕のベースなんですよ。ライターという仕事においても、ファンとしてのベースは全日本にあるんです。後年、僕はリングスが大好きになるんですけど、なぜ好きになったのか。あれは全日本の世界観なんですよ。前田日明さんがジャイアント馬場さんで、他のリングスネットワークの選手たちは馬場ワールドの外国人選手なんですよ。
加藤さん 確かに!面白い!
──その通りです!
ガンツさん リングスは全日本のようなワールドワイドな世界観があって好きだったんです。PRIDEもその延長線上にあって、今はABEMAでWWEのテレビ解説をさせていただいていますが、すんなり入れるのは僕に全日本のベースがあるからだと思っているんです。WWEは最先端のプロレスなんですけど、自分の原点や故郷に戻ってきたんだなという気持ちが強くなるんですよ。
加藤さん 巨体を誇る世界の荒くれ者たちが全日本のリングに集まって、馬場さんや鶴田さんが迎え撃つという図式も最高でしたね。そんな人たちが足利市民体育館や水戸市民体育館とか全国各地を巡業で回って、ベビーフェースもヒールも関係なく同じバスに乗って移動してプロレスをするわけで、このダイナミズムはたまらないですよ。
ガンツさん アンドレ・ザ・ジャイアントやアブドーラ・ザ・ブッチャーが足利や水戸に来てくれる贅沢さはありましたよね。全日本はすごくファンタジーがあるじゃないですか。世界各国のさまざまなレスラーが一堂に会するのがプロレスだと思っていて、人生を通じてその原体験をずっと追い求めているような気がします。
加藤さん ガンツさんはどちらかというと新日本やUWFが好きというイメージがあったので、根っこの部分で全日本をルーツにしているという話が凄く面白かったです。
ガンツさん あとUWFに関しては思春期に見れたことが大きかったですね。中学2年で、前田日明vsドン・中矢・ニールセンを見て、新生UWFは高校時代ですから、そりゃハマっちゃいますよ(笑)。
加藤さん ものすごくなんでも吸収できる多感で好奇心旺盛な時期に見たものはその後の人生を豊かにしますよね。
──これでお二人の対談は以上となります。ガンツさん、加藤さん、本当にありがとうございました。お二人のご活躍を心からお祈りしております。
(プロレス人間交差点 堀江ガンツ✕加藤弘士・完/後編終了)