プロレス人間交差点 堀江ガンツ☓加藤弘士 中編「全日本は夢のあるファンタジー」 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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「人間は考える葦(あし)である」

 

 

 

これは17世紀 フランスの哲学者・パスカルが遺した言葉です。 人間は、大きな宇宙から見たら1本の葦のようにか細く、少しの風にも簡単になびく弱いものですが、ただそれは「思考する」ことが出来る存在であり、偉大であるということを意味した言葉です。

 

 

プロレスについて考える葦は、葦の数だけ多種多様にタイプが違うもの。考える葦であるプロレス好きの皆さんがクロストークする場を私は立ち上げました。

 

 

 

 

さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開し、それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。

 
 
 

 

5回目となる今回はプロレス格闘技ライター・堀江ガンツさんとスポーツ報知編集委員・加藤弘士さんの同世代対談をお送りします。

 

 

 

 

 



 (画像は本人提供です)
 

 

堀江ガンツ

1973年、栃木県生まれ。プロレス格闘技ライター。

『紙のプロレス』編集部を経て、2010年よりフリーとして活動。『KAMINOGE』、『Number』、『昭和40年男』、『BUBKA』などでレギュラーとして執筆。近著は『闘魂と王道 昭和プロレスの16年戦争』(ワニブックス)。玉袋筋太郎、椎名基樹との共著『闘魂伝承座談会』(白夜書房)。藤原喜明の『猪木のためなら死ねる』(宝島社)、鈴木みのるの『俺のダチ。』(ワニブックス)の本文構成を担当。ABEMA「WWE中継」で解説も務める。5月31日には構成を担当した前田日明・藤原喜明著『アントニオ猪木とUWF』(宝島社)が発売される。



[リリース情報]

5月31日に宝島社から『アントニオ猪木とUWF』(前田日明、藤原喜明著/堀江ガンツ構成)が発売。

UWF設立から40年――猪木とUへの鎮魂歌。YouTubeでも話せない二人だけが知る濃厚秘話対談集。

 

 

 

 

 

(画像は本人提供です)

 

 

 

 

 

 

加藤弘士(かとう・ひろし)

1974年4月7日、茨城県水戸市生まれ。茨城中、水戸一高、慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、1997年に報知新聞社入社。6年間の広告営業を経て、2003年からアマチュア野球担当としてシダックス監督時代の野村克也氏を取材。2009年にはプロ野球楽天担当として再度、野村氏を取材。その後、アマチュア野球キャップ、巨人、西武などの担当記者、野球デスク、デジタル編集デスクを経て、現在はスポーツ報知編集委員として、再びアマチュア野球の現場で取材活動を展開している。スポーツ報知公式YouTube「報知プロ野球チャンネル」のMCも務める。

 

 

 

(画像は本人提供です)

 

『砂まみれの名将』(新潮社)

 阪神の指揮官を退いた後、野村克也にはほとんど触れられていない「空白の3年間」があった。シダックス監督への転身、都市対抗野球での快進撃、「人生最大の後悔」と嘆いた采配ミス、球界再編の舞台裏、そして「あの頃が一番楽しかった」と語る理由。当時の番記者が関係者の証言を集め、プロ復帰までの日々に迫るノンフィクション。現在7刷とヒット中。

 

 

 

 

 

今回のお二人の対談のテーマは「俺たちの全日本プロレス論」です。

 

 

全日本との出逢い、語りたい選手と名勝負について二人のプロレス者が熱く語ります!こちらがこの対談のお品書きです!

 

 

 

        

(主な内容)

1.全日本プロレスとの出逢い

2.『全日本プロレス中継』(日本テレビ系)の魅力

3.二人が語りたい全日本プロレス選手(日本人・外国人問わず)

4.二人が好きな全日本プロレス名勝負

5.あなたにとって全日本プロレスとは?

 

 


 

『闘魂と王道』著者であるガンツさんと『砂まみれの名将』著者である加藤さんの対談は抱腹絶倒で大いに盛り上がりました!

 

この二人の掛け合いがまるで深夜ラジオ番組のようでした。主に1980年代から1990年代の全日本プロレスをテーマにしたディープでクレイジーでファンタスティックな内容になっております!

 

 

 

 

 

二人のプロレス者による狂熱の対談、是非ご覧下さい!


プロレス人間交差点 堀江ガンツ☓加藤弘士 前編「俺たちの全日本プロレス論」



 

 

 

プロレス人間交差点 

「活字プロ格の万能戦士」堀江ガンツ ☓「活字野球の仕事師」加藤弘士

中編「全日本は夢のあるファンタジー」

 

 

 

 

 

 

 

 

二人が語るニック・ボックウィンクルの魅力!

ニックのわかりにくい強さとうまさが当時小学生だった僕にはたまらなく大人の世界を感じさせてくれたんですよ」(加藤さん)

 「圧倒的な強さは感じないのにタイトルマッチになると負けないという世界王者の政治力みたいなものを子供ながらに感じましたね」(ガンツさん)



──ここからはお二人が思い出に残る全日本のプロレスラーについてこの対談の場で語っていただきたいです。日本人・外国人は問いません。よろしくお願いします!

 

加藤さん 僕はニック・ボックウィンクルが好きだったんですよ。スタン・ハンセンはウエスタン・ラリアット、ブルーザー・ブロディはキングコング・ニードロップといったように代名詞となった必殺技を持っているのに、彼はこれといった必殺技がないじゃないですか。足4の字固めがギリギリ必殺技なのかなという感じですよね。風格はあるけど強いのかといえばよくわからないんですよ。

 

ガンツさん  確かにそうですよね。

 

加藤さん ただAWA世界ヘビー級王座を4度戴冠した実力者で気品の高さを感じてニックがすごく好きだったんですよ。1984年2月23日の蔵前国技館でジャンボ鶴田さんとインターナショナルヘビー級王座とAWA世界王座の二冠戦があって、鶴田さんがバックドロップ・ホールドで勝利して、日本人初のAWA世界王者になりました。あの試合が放送された『土曜トップスペシャル』放映後の夜も興奮して寝れなかったんです。ニックのわかりにくい強さとうまさが当時小学生だった僕にはたまらなく大人の世界を感じさせてくれたんですよ。

 

ガンツさん  ニック・ボックウィンクルやハーリー・レイスは、ブロディやハンセンのような圧倒的な強さは感じないのにタイトルマッチになると負けないという世界王者の政治力みたいなものを子供ながらに感じましたね(笑)。

 

加藤さん ハハハ(笑)。

 

ガンツさん 両者リングアウト、反則裁定を駆使する彼らに世の中の不条理さを教えられた気がしますよ(笑)。

 

加藤さん どう考えてもハンセンやブロディの方がニックとレイスより強いはずなんですよ。でもメジャー団体の世界王者はニック、レイス、リック・フレアーがずっと保持しているんですよ。

 

ガンツさん なんか思い通りにはならないということを教わりましたね。



AWA世界王者時代のジャンボ鶴田

「鶴田さんがAWAのテリトリーであるミネアポリス、シカゴ、ラスベガスで防衛戦を行うんですけど、我々が忌み嫌う反則負けとかで王座を防衛していくんです」(加藤さん)

「いま考えると、AWA世界王者としてアメリカで防衛ツアーをやっているのは相当すごいことですよ」(ガンツさん)




 

加藤さん 鶴田さんがニックに勝ってAWA世界王者になってからアメリカの防衛ロードの旅に出るんですよ。その時、僕は小4で週刊プロレスを死ぬほど読んでましたけど「世界王者はつらいよ」というコピーが躍った記事があって、鶴田さんがAWAのテリトリーであるミネアポリス、シカゴ、ラスベガスで防衛戦を行うんですけど、我々が忌み嫌う反則負けとかで王座を防衛していくんですね。

 

──ハハハ(笑)。

 

加藤さん 当時小学生だった僕は「お前、そんなズルをして防衛して恥ずかしくないのか」と思ってましたけど、結果的にはリック・マーテルに敗れて王座転落するんです。でもやっぱり「鶴田、頑張れ!」と応援してました。

 

ガンツさん いま考えると、AWA世界王者としてアメリカで防衛ツアーをやっているのは相当すごいことですよね。

 

加藤さん 鶴田さんはアメリカで田吾作タイツを履いたり、柔道、相撲、空手、忍者、侍といった日本人特有のギミックもなく、いつもの黒いウインドブレーカーとショートタイツで現れたんですよ。それで悪い王者をやってベビーフェースの挑戦を受け続けて、反則負けを重ねながらも防衛を重ねる姿を週刊プロレスで読んで「世界王者ってなかなか大変だな」と思いましたね。

 

──私は以前、WWEが制作した『レガシー・オブ・AWA』というDVDでAWA世界王者時代の鶴田さんの試合映像が流れたのですが、「AWAは善玉にも悪玉にもなれない中途半端な選手を王者に選んで迷走している」というニュアンスで紹介されていました。ハルク・ホーガンがAWA世界王者になる直前に、WWE(当時はWWF)に移籍したことによって団体がパワーダウンしていく中でなぜか日本人の鶴田さんがAWA世界王者になってしまったと。

 

加藤さん 日本プロ野球で例えるとWWEやNWAが「セリーグ」なら、AWAは「パリーグ」のような感じでしたね。

 

ガンツさん でも80年代初頭、本当は一番いい選手が揃っていたのがAWAなんですよ。だからWWEが全米制圧をしていく中で一番選手を取られたのがAWAでした。

 


 

──AWAには「バーン・ガニア・キャンプ」というプロレスラー養成所が団体内にあって選手育成がしっかりしていたのもいい選手が多い秘訣ですよね。

 

加藤さん あと今思うと『土曜トップスペシャル』で鶴田VSニックが放送されて、当時引退していたテリー・ファンクがレフェリーをやるんですけど、全くレフェリーとしての体をなさないんですよ(笑)。でもそれも当時『全日本プロレス中継』は17時30分から18時30分で放送されていて、特番では『8時だョ!全員集合』(TBS系)や『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)の真裏で流して世間と勝負するにはテリーがレフェリーを務めるというプラスアルファが必要だったんだなと感じるようになりましたよ。

 

ガンツさん ドレスシャツを着ていたテリーが、場外でニックやジャンボにぶつかっただけで失神寸前になったりして。当時、友だちが「テリー、レフェリーになったら急に弱くなったね」って言ってたのを思い出します(笑)。

 

加藤さん そこからプロレスラーとしてテリーの第二章が華々しく狂い咲くとは夢にも思いませんでした。



令和の世でマジック・ドラゴン(ハル薗田)を語ろう!

「僕の妄想の中では、蹴り技が得意で、ドラゴン・スープレックスを使う、のちのグレート・ムタみたいに活躍してました」(ガンツさん)

「職人レスラーとしての仕事を全うした薗田さんからプロの矜持を感じますね」(加藤さん)







──ありがとうございます。ではガンツさん、お願いいたします。

 

ガンツさん 当時、妙に気になる存在だったのが、マジック・ドラゴンなんですよ。

 

加藤さん おおお!!

 

ガンツさん 彼はザ・グレート・カブキブーム真っ只中に、カブキさんのパートナーとしてアメリカから凱旋帰国するんですけど、当時って日本に忍者スタイルのレスラーっていなかったんですよね。メキシコには「ロス・ファンタスティコス」(カト・クン・リーとブラックマンとクン・フーによるトリオユニット)がいましたけど、トリオでの来日は90年のユニバーサル旗揚げまでなかったし。そこに「龍の忍者」マジック・ドラゴンが現れて、カッコよく感じたんですよね。ただ、マスクマンのヒーローとしては、ちょっとお腹が出ていて、なんだか弱いな、と(笑)。

 

──確かにタッグマッチやシングルマッチではやられることが多かったですよね。

 

ガンツさん でも僕はマジック・ドラゴンが好きなのでそこからちょっと妄想が入って。子どもの頃って、大学ノートにプロレス団体の勝手にシリーズ日程やマッチメイクを組んだりしたじゃないですか。

 

加藤さん 僕もやってました。

 

──私もです(笑)。

 

ガンツさん 僕が妄想で組んだシリーズではマジック・ドラゴンが大活躍するんですよ(笑)。フィニッシュホールドもドラゴンスープレックスだってことにして。実際のマジック・ドラゴンは一度も使ったことがないんですけどね(笑)。僕の妄想の中では、蹴り技が得意で、ドラゴン・スープレックスを使う、のちのグレート・ムタみたいに活躍してました。妄想ですけど(笑)。

 

──ガンツさんがエディットしたマジック・ドラゴンなんですね!まるで『ファイプロ』じゃないですか!

 

ガンツさん その後、唐突に組まれた小林邦昭とのマスカラ・コントラ・カベジェラ(敗者マスク剥ぎor髪切りマッチ)に敗れて、マジック・ドラゴンはマスクを脱いでしまうんですよね。次のシリーズからは素顔のハル薗田に戻って、何事もなかったかのように前座レスラーとしての日々が始まるんですけど。週刊プロレスの熱戦譜を見るとハル薗田の戦歴は、シリーズほぼ全敗です。中堅で全敗はなかなかないですよ。

 

加藤さん 職人レスラーとしての仕事を全うした薗田さんからプロの矜持を感じますね。

 

──和製S・D・ジョーンズ(1970年代後半から1990年代初頭のWWEで名ジョバーとして活躍した伝説のやられ役レスラー)みたいですね。

 

ガンツさん 大物にあっさり負けるならともかく、中堅クラスで負け続けるという。さっきの『土曜トップスペシャル』の話でいうと、19時30分放送開始の最初の試合が阿修羅・原vsハル薗田だったことがあって。“ヒットマン”として一匹狼になったばかりの阿修羅・原のヒットマンラリアットで秒殺負けという、いい仕事もしていました。

 

加藤さん 薗田さんは組織内でどうすれば一番貢献できるのかをよく理解していたと思います。恐らくジャイアント馬場さんにとってはものすごく大切な存在だったんでしょうね。

 

ガンツさん 小橋健太(現・建太)さん世代のコーチが薗田さんですから。でも、飛行機事故で亡くなってしまうんですね。

 

──薗田さんは1987年11月28日南アフリカ航空295便墜落事故に遭い、帰らぬ人になりました。享年31。あまりにも早すぎる死でした。

 

加藤さん 僕はNHKニュースで薗田さんの訃報を知りました。当時NHKの電波にプロレスラーの名前が乗るなんてあり得なかったことなので、そこで薗田さんが飛行機事故に遭ったというニュースを見た時はどうしようもない悲しみに襲われました。

 

──薗田さんが南アフリカに行く理由はタイガー・ジェット・シンが責任者を務めるプロレス興行に出るためでした。シンからのオファーをカブキさんが断って、阿修羅・原さん、石川孝志さんが断って、最終的に薗田さんが行くことになりました。

 

ガンツさん タイガー・ジェット・シンがニュースで神妙な顔をして薗田さんの訃報にコメントを出していたんですよ。その姿は僕らが知っているシンじゃないので驚きました。

 

加藤さん それだけの深刻さを物語っていますよね。

 

ガンツさん 1989年に百田光雄ブームが起こったあの時代にハル薗田が生きていれば、絶対にファンは彼を盛り上げて応援していたと思うんです。「ハイヤーーッ!!」という声を上げながらのスライディング・キックとかめちゃくちゃ盛り上がってただろうなと。ハル薗田さんの時代が来ていたはずなんですよ、たぶん!

 

加藤さん すごく敏感なファンは薗田さんに感情移入して「俺たちで薗田を大舞台に送り出してやろう」みたいな気持ちにさせたかもしれませんね。いやぁ、マジック・ドラゴンの話をガンツさんとできるなんて幸せですよ!

 

──マジック・ドラゴンはカブキさんとのタッグでアジアタッグ挑戦とか色々と売り出し方はあったように思いますね。

 

ガンツさん そうなんですよ!もっとマジック・ドラゴンの売り出し方を考えてほしかったな~。ポニーテールをマスクの後ろから出していて、髪の毛が出ているマスクは獣神サンダー・ライガーさんより全然早いですから。

 

──ちなみにカブキさんは薗田さんの一件もあってシンが嫌いだと言ってましたね。

 

ガンツさん それはシンが悪いわけじゃないと思いますけど(笑)。

 

加藤さん こればっかりはね…。

 

──シンは1988年と1989年の『世界最強タッグ決定リーグ戦』に犬猿の仲であるアブドーラ・ザ・ブッチャーとの世界最恐極悪コンビでエントリーしているんですけど、これは薗田さんの一件があって、シンが全日本からの依頼を受け入れたという説がありますね。

 

ガンツさん それは知らなかったです。

 

加藤さん ジャストさん、なんでも知ってるねぇ(笑)。


 

二人が語る佐藤昭雄

「ずっと『佐藤昭雄とは何か?』と頭の中で醸成させていって僕は大人になったような気がするんです」(加藤さん)

「大人になった今、昔の映像を見ても『佐藤昭雄がいいな』とはあまり思わないんですけどね(笑)」(ガンツさん)



──ありがとうございます。では他にこの場で語りたい全日本のプロレスラーはいますか?

 

加藤さん 僕はアジアタッグ戦線が好きで、やっぱり佐藤昭雄さんが謎の存在だったんですよ。1970代から1980年代のアジアタッグ王座は極道コンビ(グレート小鹿&大熊元司)の代名詞で、そこに石川孝志&佐藤昭雄が台頭しますよね。佐藤さんは名前もまるで学校の先生みたいで、しかも試合もあまり特徴がないんです。一方の石川さんは日本大学時代に相撲でアマチュア横綱となり、元大相撲では前頭を務めたトップアスリートで、身体能力を全面的に押し出したファイトをするんですよ。ずっと「佐藤昭雄とは何か?」と頭の中で醸成させていって僕は大人になったような気がするんです。佐藤さんがプロレス脳があってリングのすべてが見えている人だということはさすがに小学校低学年の自分には分かりませんでした。

 

──佐藤昭雄さんの凄さは大人にならないと分からないですよね。

 

加藤さん 全然分からなかったですね。

 

ガンツさん ただ、大人になった今、昔の映像を見ても「佐藤昭雄がいいな」とはあまり思わないんですけどね(笑)。

 

加藤さん そうですよね(笑)。全日本のタイトルには番付みたいなものがあって、シングルはPWF王座、インター王座、UN王座があって、タッグはインタータッグ王座、PWFタッグ王座の下にアジアタッグ王座があったんですよ。

 

ガンツさん アジアタッグ王者チームは『世界最強タッグ決定リーグ戦』にエントリーするとほぼ全敗なんですよね(笑)。アジアタッグ王者とメインイベンタークラスの格差が大きすぎだろ、と思うんですけど。

 

加藤さん だから1980年代アジアタッグ戦線を見ていると「なんでこんなもっさりとした選手たちが王者なんだろう」と思っていると、昭和から平成になっていく1980年代後期になるとすごく活性化するんですよ。

 

ガンツさん フットルース(サムソン冬木&川田利明)が登場してから変わり出しましたよね。

 

加藤さん あの辺も週刊プロレスの市瀬英俊さんの意向なのかなと感じてました。

 

ガンツさん そうじゃなかったらアジアタッグ王座は何のためにあるベルトなのかとなりますから(笑)。

 

加藤さん ハハハ(笑)。僕は小学校の時に本屋に行ってベースボールマガジン社から発売された『栄光の輝き』という日本とアメリカの主要団体のチャンピオンベルトの写真集を買って、暇な時によく読んでいて、アジアタッグの歴代王者を紹介するページには錚々たる王者チームが名を連ねる中で、途中からトップどころではない中堅レスラーがずらりと並ぶんですよ。その象徴が個人的には佐藤昭雄さんなんです。佐藤さんに対する違和感やクエスチョンを抱え込んで僕は大人になりました。



言われてみれば確かに…。

「昭和の全日本ってかなり謎が多かったんですよ。若手や中堅クラスが海外遠征に出たと思ったら、行きっぱなしでそのまま帰ってこなかったり(笑)」(ガンツさん)



 

──佐藤昭雄さんは後年になってさまざまなレスラーや関係者の証言、本人のインタビューによって、実は凄い人だったと認識されたプロレスラーですよね。

 

加藤さん 『Gスピリッツ』での佐藤さんのインタビューを読んで、彼の言葉に耳を傾けているじゃないですか。

 

ガンツさん 昭和の全日本ってかなり謎が多かったんですよ。若手や中堅クラスが海外遠征に出たと思ったら、行きっぱなしでそのまま帰ってこなかったり(笑)。

 

加藤さん ハハハ(笑)。

 

ガンツさん 新日本の若手は海外に出したあと華々しく凱旋帰国させて売り出しますけど、全日本はそのまま行方不明ですからね。

 

加藤さん 本来ならロングダリングされて帰ってくるはずなのに。

 

ガンツさん 僕は全日本の会場に行くたびに、当時300円だったプログラム(パンフレット)を買ってたんですけど、「この後ろのほうに『海外遠征中』として載ってる伊藤正男って人、いつまで経っても帰ってこないな」とか思ってましたから。


加藤さん 伊藤正男さんは気になってました!あとロッキー羽田さんにもっとチャンスを与えてほしかったんです。192cm 115kgという体格とフィジカルを備えていていたわけですから。それこそ自分の妄想で組んだシリーズでは羽田さんは鶴田さんと組ませて、ブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカと対戦させてましたよ。

 

ガンツさん  1977年の『世界オープンタッグ戦』に出場したロッキー羽田&天龍源一郎では、羽田さんの方が格上だったんですよね。

 

加藤さん そうですよ。あと羽田さんの「和製アメリカンドリーム」という異名が本当に意味が分からなかったですね(笑)。どこの国の ドリームなんだろうと。

 

ガンツさん 「田舎のプレスリー」的な(笑)。




二人の全日本マニアックトークは止まらない! 

「新日本で初代タイガーマスクとかザ・コブラなどジュニアヘビー級のスターが次々と現れるのに、なぜ全日本ではマイティ井上がジュニアヘビー級王者なのだろうと」(ガンツさん) 

「大仁田厚さんがジュニアヘビー級の頂点を取ると、試合後にリングを降りた瞬間にヒザを怪我するという全く意味がわからないことをやっていて。ただNWAインタージュニア王者時代の大仁田さんを見ると『こいつは只者じゃない』と思いました」(加藤さん)



 

──ハハハ(笑)。ちなみにガンツさんは他に語りたい全日本のプロレスラーはいらっしゃいますか?

 

ガンツさん 新日本で初代タイガーマスクとかザ・コブラなどジュニアヘビー級のスターが次々と現れるのに、なぜ全日本ではマイティ井上がジュニアヘビー級王者なのだろうと、不思議に思ってましたね(笑)。

 

加藤さん 本当にそうなんですよ!

 

ガンツさん そもそもジュニアヘビー級とは思えないほど豆タンクみたいな体型じゃないですか。

 

加藤さん 髪型が七三分けで、すごくおじさんに見えるわけですよ。初代タイガーマスクと同世代である大仁田厚さんがジュニアヘビー級の頂点を取ると、試合後にリングを降りた瞬間にヒザを怪我するという全く意味がわからないことをやっていて。ただNWAインタージュニア王者時代の大仁田さんを見ると「こいつは只者じゃない」と思いました。チャボ・ゲレロとの血だらけの抗争が鮮烈な印象があって、人を魅了する能力は当時から長けていて、彼のファイトにすごく惹かれました。

 

ガンツさん 泣け叫ぶ王者なんていなかったですよね。1982年11月4日・後楽園ホールで行われたチャボ・ゲレロ戦ではチャボに血だるまにされて、試合後にものすごいデカくてトロフィーで乱打されるんですよ。

 

加藤さん あのトロフィーがギザギザ感があって痛そうでした!

 

ガンツさん 2016年8月26日にディファ有明で行われた『ファイヤープロレス』旗揚げ戦でチャボを呼んでいるんです。大仁田厚&チャボ・ゲレロ&保坂秀樹&NOSAWA論外VSケンドー・カシン&鈴木秀樹&将軍岡本&黒覆面F(はぐれIGF軍団)のノーロープ有刺鉄線バリケードマットストリートファイトデスマッチというとんでもないカードが組まれて、大仁田&チャボの友情タッグが見れたんですけど、試合後にやはりチャボが裏切るんですよ(笑)。

 

加藤さん チャボは分かってますね!

 

ガンツさん 大仁田にトロフィーで殴りにかかるんですけど、そのトロフィーが34年前に比べると日本テレビの資金が入っていないので、めちゃくちゃ小さいんですよ(笑)。オマージュをやったんですけど、「トロフィーが小さいよ!」と野次が飛んで(笑)。



1990年6月6日、水戸大会で謎の「シン」コール!

「シンが入場した時にみんなで猛烈な『シン」コールをやったんですよ。両手を突き上げながら『シン!シン!シン!』と(笑)。これがとんでもないエクスタシーの境地に達したんですよ!!」(加藤さん)

 




 

──全日本時代から大仁田さんがやっていることは完全にテリー・ファンクなんですね!

 

ガンツさん テリー・ファンク、大仁田厚、長与千種は言わばスタイルが一緒ですからね。3人とも大好きです。

 

加藤さん 話が前後して恐縮なんですけど、ガンツさんが1989年3月の後楽園ホール大会でファンがムーブメントを作ってリングの風景を彩っていったということを語ってくださいましたけど、そのファン主導の流れに近いことが1990年6月6日『スーパーパワーシリーズ』水戸市民体育館大会であったんです。

 

──どんな流れがあったんですか⁈

 

加藤さん 水戸大会の第5試合でタイガー・ジェット・シンが入場してきて、寺西勇さんとシングルマッチでコブラクローで勝利したんですけど、『吹けよ風、呼べよ嵐』(ピンク・フロイド)の旋律に乗ってシンが入場した時にみんなで猛烈な「シン」コールをやったんですよ。両手を突き上げながら「シン!シン!シン!」と(笑)。これがとんでもないエクスタシーの境地に達したんですよ!!

 

ガンツさん ハハハ(笑)。

 

加藤さん 会場はレイヴ(ダンス音楽を一晩中流す大規模な音楽イベントやパーティー)のような熱狂に包まれて、シンもその空気に呼応するように乗っているんですよ!ガンツさん、一時期に妙なシンのブームがありましたよね。

 

ガンツさん 実は「シン!シン!シン!」は1990年の『スーパーパワーシリーズ』で発生していて、最終戦の日本武道館(6月8日)ではブッチャーと一騎打ちだったんです。

 

加藤さん そうだったんですね。鶴田VS三沢の前にそんな素敵なカードが組まれていたことは全然語り継がれていないですよ(笑)。

 

ガンツさん 試合があまり面白くなくて、つまらないから観客は「シン!シン!シン!」というしかなくて(笑)。ブッチャー戦が最後にシンのブームも静かに終わってしまうんです。

 

加藤さん プチブームのような感じで期間も短かったんですけど、火花というか花火のような熱い血潮を感じましたね。とにかく水戸市民体育館は「シン!シン!シン!」で炎上してました。 



全日本プロレスという唯一無二の世界観

「新日本は村松友視さんが論じている文脈があって、その文学的世界観とは違ったところで怪物たちがバスに乗って全国巡業していたというのはものすごくて夢のあるファンタジーですよね」(加藤さん)

「僕が初観戦した足利大会で、会場入りして売店とか一通り見た後に食堂に行くとウルトラセブン(高杉正彦)がいて、マスクを鼻の上まで上げて、煙草を吹かしていたんですよ(笑)」(ガンツさん)

    

 

──シンはその三か月後の1990年9月に新日本に戻るんですよね。

 

ガンツさん 僕は子供の頃に会場で見たプロレスラーというのはすごく印象に残っていて、あれは1983年『ジャイアントシリーズ』で会場観戦して、初めて生で見たプロレスラーが巡業バスから降りてきた渕正信さんだったんです。当時の渕さんの印象はかなり細いという感じでした。子供の頃に見た渕さんがものすごく大きくて、胸板がめちゃ分厚かったんです。身長が高い人は僕が育った街にもいましたけど、尋常じゃなく発達した胸板を持つ人はいないので、「これがプロレスラーなのか」と実感しましたよ。

 

加藤さん ちゃんと1980年代から1990年代の全日本を試合会場で見てよかったなと思いますね。ジャイアントサービスのTシャツが売店で売られていて、馬場さんがサインしているという光景なんて今考えると宝物じゃないですか。

 

ガンツさん あの光景にもう一度出逢いたいですよ。

 

加藤さん 初観戦で見れた馬場VS鶴田が今、もう一度見れるなら100万円を払いますよ!新日本は村松友視さんが論じている文脈があって、その文学的世界観とは違ったところで怪物たちがバスに乗って全国巡業していたというのはものすごくて夢のあるファンタジーですよね。

 

ガンツさん それでこそプロレスなんですよ。僕が初観戦したのは足利市民体育館大会だったんですけど、食堂が併設されていたんです。会場入りして売店とか一通り見た後に食堂に行くとウルトラセブン(高杉正彦)がいて、マスクを鼻の上まで上げて、煙草を吹かしていたんですよ(笑)。

 

──ハハハ(笑)。最高ですね!

 

ガンツさん 口が開いているマスクもあるはずなのに、なんで口が開いていない試合用のマスクを被って煙草を吸おうとするのか(笑)。ウルトラセブンのこの姿は地方興行ならではかもしれませんね。

 

加藤さん これまた時代がワープしてしまうんですけど、1987年11月23日『世界最強タッグ決定リーグ戦』水戸市民体育館大会のメインイベントがジャイアント馬場&輪島大士VSアブドーラ・ザ・ブッチャー&TNTだったんです。これが「This is 地方興行」で馬場さんが出てきて、輪島さんが出てきて、ブッチャーがいて最後はしっちゃかめっちゃかになって両者リングアウトで終わるんですよ。それでも僕らは大満足で。

 

──確かに「This is 地方興行」なタッグマッチですね!

 

加藤さん この試合の場外乱闘であまりにも凶器がないので、ブッチャーが会場で売れ残っていたウィンナーで輪島さんを攻撃して痛がっているんですよ。でも「ちょっと待てよ。ウィンナーで殴られて痛いのかよ」と(笑)。僕は受験して入った私立の男子中学校で落ちこぼれてしまい学校の成績が伸びず「どうやって勉強をすればいいのか」と悩み、人生で何も夢中になるものがなかった時にウィンナーで攻撃された「うわぁ!」と叫ぶ輪島さんを見て、僕も頑張って生きようと元気をもらいましたよ。






(中編終了)