彼はわたしを見つめている。

「誰かの、一生を決めてしまうかもしれない。それが、自分にはとても怖いんです」

 彼は「覚悟がないんです」と苦笑する。

情けないですね、と瞼を伏せる。

 そんなことない。

「先生は、ちゃんと考えているってことでしょう?」

 わたしは「情けないなんてこと、ない」と断言する。彼は瞬きして「ありがとう」と笑う。

(あ、この人、)

 こんなに話したことも初めてだし、こんなにじっくり見たのも初めてだから気付かなかったけれど。

(キレイね)

 いつも白衣や、やはり足に目がいってしまう。それに彼に会う時は大抵、自分が不調の時なので余裕がない。

(男の人に『キレイ』は変かしら)

 でも、よく見たら肌もつるつるとしているし、髭も薄い。二重で睫毛は長くて多い。

 眼鏡で隠れてしまうけれど、印象的な目をしている。

「世の中の親たち、君たちのご両親も、すごいと思います」

 彼は感嘆している。

「虐待する親とかもいますケドね。モンスターペアレントとか」

 彼は力強く、頷く。

 仕事柄、実際に目にしたことがあるのかもしれない。口を開かなかったけれど。

 あの時、どうして。

 チリと胸の奥底が痛む。

「大丈夫ですか?」

 思わず胸を押さえたわたしに彼がのぞき込む。

(違う、)

 痛んだのは、わたしの胸じゃない。

「先生は結婚しないんですか?」

 彼は「え~と、」と目を泳がせる。

 ちら、とわたしを見て諦めたように「残念ながら」と答える。

 また足をさする。

「あ、すみません」

「え? あぁ。いい、いい。これはもう癖ですから」

 足の怪我が原因で、嫌な思いや心ない仕打ちを受けてきたかもしれない。

 わたしの質問は、無神経だった。

「あんまりね。君たちのように若い、これからの人に言うことじゃないかもしれないですが、」

 彼は一度、外を見てからまたわたしを見つめた。

「自分は親になることが怖い」

 少しずつ彼の口調が砕けて来ている。本当は、彼の方が吐き出したいのだろうか。

 彼は「けっこういますよ」とわたしを見た。

「寝不足の子はけっこう、います」

 微笑を浮かべる。

「進路のこと、友達のこと、家族のこと。恋愛のことも」

 恋愛は違うけれど、それ以外はわたしに当てはまっている。

「悩みは尽きません」

 保健医はそう結んで、机の正面に戻る。

「悩みは、」

 口をついて出てきた。考えて発した訳ではない。

 まるで条件反射のようだ。

「その悩みは、今だけですか? 大人になれば、悩みませんか」

 彼は椅子を回転させ、わたしの正面を向く。

「今の悩みは、今だけだと思いますよ」

 彼はまず、そう答えた。

「例えば進路や進学の悩みは今ですが。会社の昇級試験や転職など、進路進学が形を変えたと捉えることもできます。結婚とか。ある意味、進路ではないですかね」

どうですか、と尋ねられてしまった。わたしは「そう、かな」と曖昧に答える。

 彼はまた足をさする。

「悩みは尽きませんよ。その時その時で常に悩む、そういうものでしょう」

 彼の答えは苦しいことに終わりがないと言っているようだ。

「まだピンと来ないかもしれませんが」

 これは前置きだろう。

「今、悩んでいることを大人になって悩んでいたことを悩むんじゃないですかね。あの時どうして、というように」

 あの時どうして。

 自分の決断を迷う日が、後悔する日が来るということだろうか。