八須(ハチス)は扉に視線を投げた。

「何です?」

 釣られてわたしも視線を向けた。

「そろそろお迎えが来そうですよ」

 彼と扉を交互に見る。彼はただ微笑むだけ。

 わたしは扉を見つめる。

 扉の先、廊下の奥。階段を降りてくる。

 走らないよう気を遣いながら。それでも急いでいるから、歩幅はいつもより大きいかもしれない。それとも音を立てないよう気をつけながら小走りかしら。

 わたしはまた八須を見た。

 わたしは彼に、どんな顔を向けているのだろう。

 情けない顔、とは判る。心細いような、不安のような、隠れてしまいたいような気さえしているから。

 だけど彼は微笑んで、ひとつ頷くだけ。

 たぶん彼は、わたしがどんな顔をしていても。同じように微笑むだけだろう。
 彼は変わらないだろうと思えたら、わたしの心は静かになっていった。

 彼が変わらないことは、わたしを安心させた。実際の彼の反応を見たわけでもないのに。彼に、聞いたわけでもないのに。

 彼は「いつか、」と声を発する。

「いつか寂しい思いをするかもしれない。今だけを考えて、その先はもっと孤独になるかもしれません」

 顔を上げる。彼は相変わらず笑んでいる。

「もし、」

 わたしが口を開いて止めても、彼はにこにことしているだけで。わたしの言葉を待っているようだった。

「もし、わたしが居辛くなったら。ここに来ても良いですか?」

 わたしはどこに居辛くなったら、と言わなかったのに彼は「構いませんよ」と快諾する。

「居辛くならないと良いですね」

 彼はさらっと口にする。

 その言い方が何だか妙に軽く感じられて、思わず顔が緩んだ。

「そうですね」

 沈黙が流れる。

「もし、話したいことがあったら来てくださいね。自分の話は、他の人たちには内緒ですよ」

 彼は口元で人差し指を立てる。子供っぽいような仕草が、やけに似合って笑みがこぼれた。

 彼は「事故に遭ったショックなのか、」と続ける。

「痛みか、痛み止めか。夢か現(うつつ)か、」

曖昧です、と結んだ。

 ふぅっと息を吐く。

「時々、全部が夢だったんじゃないかって思うんです」

 そして、それは。彼にはとても都合が良いのだろう。

 彼はわたしを見留める。

「そう、言ったらね」

 くすりと笑う。

「『じゃあ俺も夢か』って言った友人がいまして」

 目を細める。

「やんちゃをした仲間でしたケド。お見舞いに来てくれたのも、今でも付き合いがあるのも。彼くらいです」

 彼はわたしに向けて言い切った。

 笑んでいる。

「きっと、今は一人になることが怖いでしょう。望まない、苦しいだけの付き合いなら無くても良い。繋ぎ止めようとしても、その繋がりは脆い」

 わたしを見つめている。

 彼は目を逸らさない。わたしの方が俯いて、彼の視線から逃れた。

 彼の仲間は、お見舞いに来なかったのか。事故をきっかけに彼は仲間たちと距離を置くことになった。

 彼は、一人で寂しくなかったのかしら。

 あぁ。一人ではなく、彼にはちゃんと友人がいたんだわ。

 もし、わたしが。

 わたしが今、彼と同じように事故にあったなら。お見舞いに来てくれる、大人になってからも付き合えている友人はいるかしら?