Dコードの提唱
フェミコード(FC)とは、性や性別にまつわる「おかしな言動」に対するイエローカードのことで、それについて解説することにより思わぬセクハラを防ご うというのが、斉藤美奈子の『物は言いよう
』である。60の事例についてFCに抵触する所以を説明し、併せて「難易度」として、セクハラ発言としての判断の難易を示している。
この「難易度」は3段階にわかれ、次のように定義されている。
★ 思わず失笑をさそう天真爛漫な発言。
★★ ついつい納得させられる粉飾上手な発言。
★★★ 一見進んで見える油断大敵な発言。
端的に言えば、★の数が多いほどうっかりだまされそうだということのようである。
例をあげると、
★ 「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババアなんだそうだ」(石原慎太郎都知事)
★★ 「女の涙は最大の武器。泣かれると男は太刀打ちできない」(小泉純一郎首相)
★★★ 「我が子を立派な人間に育てていらっしゃる女性を、心から尊敬しているんです」(畠奈津子・マンガ家)
これをさらに説明するとなると引用の域を超えそうなのでやめておくが、熟読玩味すると★の多寡の意味がわかってくる。
ではこの思考方法を障害者差別に適用すればどうなるだろうか? 論証を抜きにして考えてみたのが次の3つのグレードである。
● ストレートな差別言辞。
●● つい同調しそうな思いやり的言辞。
●●● 一見差別がなくなったようであるが、実は恣意的な差別の混入の可能性を秘めた言辞。
例は実例となる発言を採集する時間がないので法文からとるが、
● 「つんぼ、おし及び盲の者には資格を与えない」(1948年制定の医師法第三条)
●● 「目が見えない者、耳が聞こえない者、口がきけない者には資格を与えない」(1981年改正による医師法第三条)
●●● 「次の各号のいずれかに該当する者には、免許を与えないことがある。
一
心身の障害により医師の業務を適正に行うことができない者として厚生労働省令で定めるもの」(2001年改正による医師法第四条)
●のものはあからさまな差別語を使っているが、●●のものは国際障害者年を控えて法文中のこの種の表現(他にも沢山あった)を改正した結果であって中立的な表現になっており、つい配慮が加わったと錯覚しそうであるが、個人の能力の吟味を行なわずに当該障害を持つ者を一律に排除するという点では変化はない。●●●のものは個々の障害を示さず、かつ「与えないことがある」としている点は進歩しているとも言えようが、実際に判断するのは当局者であり、障害をもつ者が国家試験等に合格しても、なおかつそれだけでは資格を与えられえないケースがまだ見られる。
まもなく成立するであろう「障害者自立支援法案」の審議において、障害者の負担が大きくなることについての答弁の中での、厚生労働省の中村社会援護局長の発言、「今度の法律としましては、『サービスは買うものだ』と、みんな買う主体になると、そういう考え方にたち、少しでもその費用についてはシェアすることによって当事者としての参画もしていく」というのも、一見合理主義的ではあるが、実は障害者の「購買力」を棚上げするというアンフェアな、つまりは差別的なもので●●●を差し上げるべきでしょう。
この●で表すものを何と名づけるか? あまりいい知恵は浮かばないが、Dコード(DC)はどうであろうか? DがDisability(障害)であるか、Discrimination(差別)であるかは決めがたいが、使う場合によるのかもしれない。
地についた商売
リヤカーを引っ張って歩くと一口で言うが、できるだけゆっくりと歩かねば家から出てくるのに間に合わないというのは、やってみて初めて気づくことです。そして、買い物に遠出のできないお年寄りの固定客ができ、今は拠点をいくつか作ることにより、世田谷あたりまで商圏を広げているそうです。
ビジネスというのは広い、大きい、早い、多いを目指すものとされているが、実は狭い、ゆっくり、少しずつということにも商機があるというように司会の人がまとめていましたが、まったくです。加えて、御用聞きをするプロセスの中で、一人住まいのお年寄りが三日ぶりに口をきいたという話には正直感動しました。また、団地の上の方でやはり一人暮らしの方が、足を痛めているのですぐそこの豆腐屋にも行けないところを、売りにきた人に上まで持ってきてもらったという例もありました。こういう手段を見つけて、どんなにかうれしかったことでしょう。
これも司会の言葉ですが、高齢者対象の事業というと介護が真っ先にあげられるが、それは量的なものなので、一方ではこの豆腐屋のような行きかたもあるのです。私がこのブログで書いている「物価と高齢者・障害者 」も読んでいただきたいのですが、こういう身近なところに目をつけて、しかもビジネスとして成功させるという人が、増えて欲しいものです。
それにしても竹中大臣とか堀江社長とかが、こういうビジネス・モデルを知ったらなんと言うか、聞いてみたいものです。豆腐屋さんは決して虚業ではありませんが、IT企業はそうとは言い切れない・・・これだけはたしかですね。
前門の虎、後門の狼
医師の言うには炭酸ガスが体内に溜まると眠くなる。対策はと聞くと、酸素の量を減らすことだそうです。私が現在吸っている酸素は単位がはっきりしないのですが、1(時間?)に酸素1(リットル?)が標準だと思います。これを起床時は0.75(リットル?)にして、寝る時は1に戻したらと。しかし起床時でも外出とか、屋内でも軽作業をしている時は酸素が少ないと不安でないこともありません。
私は肺活量が少ないのですが、それ以外に肺の機能が落ちているということもあり、こういった状態が在宅酸素の方に一般的であるかどうかはわかりません。とにかく私としては前門の虎、後門の狼という言葉が当てはまりそうです。
腹式呼吸をしたり、体操で 筋肉を鍛えたり、まだやることはありそうですが、障害といってもよくイメージされるような静的なものではなく、少しずつ条件が悪化しているものもあることは知っていただきたいものです。
病気の診断
手っ取り早く言うと、元々は背骨の病気であったのが、新しいものは脳の異常でした。水が溜まって歩くのが極端に困難になった。背骨の病気の延長だと思うのは当然ですよね。でも、かかっていた整形外科では背骨のほうは完治しているという。考えあぐねて家内が言い出して、神経内科で診てもらったらほとんど一発でした。
手術して、その方は完治して思ったのは、最初の診断はコンピュータでできないかなというものです。いろいろと調べても脳はどうしても後回しになる。最近は脳ドックというものもありますが、人間ドックというのは首から下を扱うのが、少なくとも当時までは普通でした。患者側も肉体症状だと脳が原因だとは思わず、思いたくもないこともあって、医者にもその傾向があるようです。しかし医者が気がついてくれるのを待つしかない。私の場合はそれがなく家内が溺れる者は藁式で神経内科に連れて行ってくれて治ったのですが、最初の時に症状を全部チェックして、コンピュータにかければ人間の先入観で省いていた、神経内科とか脳外科とかの指示も出るんじゃないかと思います。
何でもかんでもコンピュータというのは反対の私ですが、最初に可能性を尽くすという意味ではコンピュータ診断から入ってもいいんじゃないでしょうか。精神科の場合はもっと人間による診断の部分が大きいでしょうが、それでもいろいろな症状が出ていれば、一度まとめてコンピュータで分析という場面があるのも有効かなと思います。
私のかかっていたのは大病院で、整形外科、神経内科、脳外科ということになったわけですが、後に検診に行くと、これらの科の医師が相互に行き来しているのをよく見かけるようになりました。私の例がいい経験になったかと思ったものです。
品位
ところが、その支給の趣旨が「元皇族としての品位を保持するため役立ててもらうという」いわば国からの「持参金」であると読んで、いささかひっかかった。「元皇族の品位』とは何だろう。夫となる方はちゃんとした職業をお持ちなのだから、月々の生活費の補填に使うわけでもあるまい。おまけに非課税だそうだ。敗戦時に世界的な富豪であったという天皇家の財産はすべて国有財産になったはずだが、その後ひっそりと移管が行なわれて、天皇家の財産は今ではたいしたものであるという。そこから出費するのが本来ではないのだろうか。
さらに、国民一般の場合、親の財産を生前にいくらかでも子供に譲っておこうとしても、譲与税がかかる。それを免れるには小出しにしなければならないが、その限度額は年に一億・・・ではなく、たしか百万円である。1億5250万円に税額分を水増ししてもいいから、われわれと同様譲渡税は払うという形にできなかったものかと思う。形を整えることは大事だと思うが。何しろ年金にも税はかかるのですから。
障害者の場合を考えてみよう。障害基礎年金は2級の障害については年額794,500円(月額66,208円)、1級で999,100円(月額82,758円)である。これで人間らしい品位を保てると政府は考えているのだろう。住宅をはじめとしてさまざまな支援や配慮が十分になされており、それらが無料かそれに近ければ、なるほど月に8万で品位を保てるかもしれない。しかし現実はそうではなく、あまつさえ新しい法律で障害者から支援の料金を徴収しようとしている。
この国には「品位」にもいろいろとあるらしい。正直言って、皇室の出身だといろいろと出費がかさむのはわからないでもない。しかしそれを補うのに「品位」などと言って欲しくない。「今後のおつきあいに不自由しないように」とでも言って欲しい。そして皇室財産からの譲渡なり、課税を行なうなりの形を整えて欲しい。
統計は信じられるか?
何回か書いているように私の障害の一つは呼吸障害ですが、これへの対応は必ずしも入院ではありません。しかし家にいても酸素発生器か酸素ボンベによる酸素供給が欠かせないので、これを在宅酸素療法と言っています。1985年頃に発生器やボンベの供給システムができたので、それまでは家から一歩も出られない状況だったらしいのを考えると、一人で通勤までできたのはありがたいと言うべきでしょう。
それでも鼻から酸素を吸入する用具であるカニューレに不具合があったり、また在宅酸素療法には毎月保険外に支払う費用が馬鹿にならないなど、いろいろ問題も尽きないので、情報を求めて検索にふけることもあります。
その過程でたまたま見つけたサイトの末尾に、JTがやっているサイバーホスピタルという健康関連ページが紹介してあり、タバコと呼吸不全ですから、「マッチポンプとはこのことか」と注記があったのはもっともですが、見てみるとなかなか詳しいQAが載っていて参考になりました。
ところがその中の質問に「HOTを受けるようになったらもう先は長くないのでしょうか」というのがありました。HOTというのはHome Oxygen Therapyで、つまり在宅酸素療法ですが、これに対するAに曰く、「HOT開始後5年後にまだ約半数の患者さんが生存しています。9年後にもまだ20%から30%の患者さんが生存して居られます。患者さんの年齢を考えるとかなり長生きができるということです」。・・・顔文字なら>_<というところでしょうか。
実は病院で治療を受けていたときにも、これに類することは言われていたのですが、その後、今年で4年目ですから、これを読むとムムム・・・ですね。はじめに聞いたときから思っていたのですが、これはHOTを始める年齢は70過ぎというのが圧倒的に多かった頃の数字が残っているのだと思います。今ではその年齢は低下しつつあり、私も60すぎですが、Aで 「患者さんの年齢を考えるとかなり長生きができる」というのだったら、5年後とか9年後とかいう数字に、患者の平均年齢を入れて欲しいものだと思います。
このような数字は一人歩きしますから、5年で半減ということで、ひょっとして知人の中にも、私はもう長くないと信じている人もいるかもしれません。
私の もう一つの障害というか、手術の予後というのかに、頭から腹部までシャントというプラスティックのパイプを入れているというのがあります。これは幼時の脳
膜炎で脳内の脳脊髄液の循環が悪くなり、50くらいの頃に発症したもので水頭症といいます。知能低下や歩行のコントロールがきかなくなるのが症状ですが、 これはシャントを敷設して余分な脳脊髄液を腹腔に排出するようにして完治しました。ただし、治ってから本を読んでみると、シャントが不具合になっての再手
術は5割以上だというのです。
私がかかった病気にしては珍しく
きれいに治ったけれど、脳手術をもう一度というのはかなわないなと考えたのですが、水頭症は先天的なものが多いことに気づきました。脳からお腹までのパイ プですから、幼時に入れてから身体が成長すればいろいろ不具合があって当然でしょう。大人になってからだとそういうことは少ないのではないかと。確認して
いませんが、手術後12年ほどたってもこの方は無事ですから、この考えは正しいと思っています。手術後にその辺を説明しておくべきではないでしょうか。
もう 一つ、厚生労働省が厚生省時代から、身体障害者実態調査というのを5年に一度やっていますが、その平成8年の調査で、視覚障害者で点字ができるのは何%
か。聴覚障害者で手話ができるのは何%かというのがありました。興味を持って数字を見ると、何と視覚障害者で点字ができるのは調査対象305名のうち9. 2%。聴覚障害者で手話のできるのが304名のうち14%。『できる』の定義が不明ですが、いかにもわずかな数字です。視覚障害者では音声に頼る人の方が
多く、聴覚障害者にも文字に頼る人の方が多いとは知っていましたが、いささか極端な数字だと思いました。そこで他の数表をいろいろ見てわかったのは、調査 の対象者のうち60歳以上の者が視覚障害者では67%、聴覚障害者では72%もいたということです。
つま り視覚聴覚のどちらの場合も老化などで後天的に失い、点字や手話を習得するに至っていないケースが多いのだと思われます。年齢だけでもってそれをはっきり
とは言い切れませんが、60歳以上の者を6,7割とはあまりにも偏った年齢分布で、責任ある役所の調査だとは思えません。もっぱら老人施設のようなところ で数字を集めたのでしょうか? ところがその後この14%だとかいう数字が一人歩きしているようで、私も見たことがあります。
教訓:%で語られる数字は、その母集団を示していない限り、うっかり信用するな。
情報保障と選挙(1)
ブックマークで引用した「小池公夫のホームページ」は岐阜県中津川市の市議会議員によるものですが、小池議員は在職中に下喉頭ガンにより声帯を失い、議会での発言が通常の手段ではできなくなりました。そこで他の議員などを代弁者として発言したいと要請したのですが、議会はそれを認めず、パソコンによる音声変換の方法なら許可するとしているそうです。
ホームページの中にはそれに関する委員会の議事録があり、それを読んでも他の市議会に例もあるのに、代弁者を使用することになぜ反対するのかがもう一つわからないのですが、情報保障の方法を限定するというのはかなり問題です。国際人権規約(B)第19条の2に、「すべての者は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。 」とありますが、こんなことはこれ以前に常識でわかることでしょう。しかし議事録で見る中津川市議会の感覚はそういうものとは無縁のようです。これは当の本人の小池市議が、発言方法が決まっていないからでしょうが、とうとう最後まで発言できなかったことでもわかります。
聴覚障害者が情報を受けるには大きく言って手話通訳と文字通訳(要約筆記)の二つの方法があり、手話に続いて要約筆記も最近は認知されるようになり、最近ではどちらかを選択できるようになってきました。パソコン、というよりコンピュータによる音声認識も試みられていますが、これはまだ実用化されていないようです。音声変換の方は実用的段階に達しているのかどうかよくしりませんが、唯一無二の方法とは思えません。
代弁という代替方法があるのにパソコンがいいという考え方に対しては別に書きますが、小池市議はまだパソコンに習熟しておらず、選挙民への議会報告も手書きを印刷したものであり、このことは市議会も認識しているのは書いておかねばならないでしょう。
「お別れ会」
ところで新聞に後藤田さんの「お別れ会」のことが載っていた。ホテル・ニューオータニで、葬儀委員長は中曽根元首相だそうだ。場所も場所だし、集まるメンバーが「大物」揃いなのも予想できるし、一般の、今こそ後藤田さんに喝を入れて欲しいと思う人は、ちょっと参加できないだろう。
そもそも、私には「式」に反発する者の気持がわからない。入学式や卒業式といった、集団を対象とするものは少し別だが、結婚式や葬儀はやっておく方が合理的・実際的なのではあるまいか。豪華にするかしないかという次元ではない。結婚なり誰かの死亡なりという事実を、社会に対して告知するという意味でである。
葬儀にしてもやらないで密葬という遺言も多いという。よほどの高齢であればそれもわかるが、そうでない限り葬儀をやらないあるいは公表しないことは、後で知ってお悔やみに来るなどの無駄を強いることにはならないだろうか。遺族にしても葬儀を公表していないと、後で知って五月雨式に弔問客が来るので、いつまでも落ち着かないという。
そこで「お別れ会」「偲ぶ会」の類をやるのだろうが、葬儀をするような場所でやるわけでないことも加わって、直接関係のない人は行きづらい、言うならば排他的なものになる可能性が大きい。亡くなった人の「ファン」であれば葬儀や通夜には行けそうだが、ホテルで行なう「お別れ会」にはちょっと足が向かないだろう。
大きな改革、余計なお世話
今の世の中で正しいとされている「改革」一般とつながる感じです。銀行の合併なんかを考えると、この感覚はわかってもらえないでしょうか?
本気に正しい改革をやるつもりなら、慎重にシミュレーションを行なうなり、試運転をするなりが当然でしょう。それがそうでないのは、改革で「痛み」を受ける層と、改革を行なう層とが重なる部分が少ないからだと思います。
掲示板のことなら笑って済ませられますが、銀行を使ってのお金のことだとそうはいかないし、「人減らし」なども、その効果を二の次にして「やってみる」ということであるのならば、対象となる人間はどうなるのかと言いたくもなります。
「改革」を声高に言う人々には、二世三世というか、現実の生活感覚の希薄な人が多いのも不安ですね。そういうのを支持する人が多いのももっと不安なわけですが。
物価と高齢者・障害者
話が飛ぶようだが消費者物価が安定している。2000年を基準とすると、以降は常に基準以下の指数となっている。これはデフレのせいでもあろうが、一方では流通の影響、とくに大型小売店や量販店が増加してしているせいだと説く者もいる。
しかし、高齢者や障害者にはそういう店は利用しにくいのである。高齢者の場合は地元の店を利用することが多いのだが、そういう店が大型店進出の影響でどんどん減っている。身近なところでより安いものを選択しようにも、その余地が少なくなっている。つまり、高齢者や障害者は、物価が下がることの恩恵を、十分に享受しできないのではないかというのが私の考えである。
表面的な統計ではこういうことはわからない。