スポーツとパワハラ 日本とオーストラリア | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

2018年、日本では「スポーツとパワハラ問題」の嵐が吹き荒れた。

長年、私はオーストラリアのコーチを伴い日本でラグビーのコーチング・セミナー等を開催しているが、実際にパワハラの現場に遭遇する機会は決して少なくない。

殴る蹴るの暴力沙汰ばかりではなく、それは、例えばケガをした選手を十把一絡げにして 「ポンコツ」 という呼称で呼ぶような言葉の暴力も含まれている。

 

30年オーストラリアに暮らし、息子二人の成長に合わせスポーツに接する機会は多かった。

ただ、パワハラの類に遭遇したことは一度も無い。

それは、指導者も常に学ぶ努力を続け、マナーやルールを守り、選手達と同じ立場や目線でリスペクトし合う関係が存在しているからだと考える。

息子達の親しい友人である伊藤華英さん。

オリンピック北京大会やロンドン大会に出場を果たし、ラグビーワールドカップ2019ドリームサポーター、東京オリパラ2020競技大会組織委員会の委員など、日本のスポーツ普及に日々尽力されている。

彼女のコラム ”ハナことば” に 「オーストラリアがスポーツ強国である理由」 と題し、オーストラリアのスポーツの日常がとても分かり易く取り上げられている。

 

華英さんのコラムには、オーストラリア滞在中に彼女自身が感じた「オーストラリア国民のスポーツに対するオープンな姿勢」が詳しく描かれている。

華英さんの言う、”アスリートが心地良く感じられる環境や周囲のフレンドリーな対応” からは、長年シドニーに住む私でさえ、スポーツ大国オーストラリアのスポーツに対する素晴らしい環境や国民の姿勢を改めて気付かされる。

 

「朝から運動する文化」 「カフェ文化」 という彼女の視点はとても新鮮で面白く、その爽やかな光景がきっと多くの読者にまで伝わっていることだろう。

そして、「スポーツはアスリートだけに限られたものではなく、オーストラリア国民の全てにスポーツの無い日常は考えられない」と言い切る彼女の着眼点から垣間見られるのは、「そのような文化をいつか日本にも・・・」という彼女の切なる願いではないだろうか。

ラグビー・イングランド代表ヘッドコーチ、エディー・ジョーンズ氏。

母国オーストラリアはもちろん、ラグビー・ジャパンを劇的に進化させたのは記憶に新しい。

スポーツ文化・育成&総合ニュースサイトに興味深いインタビュー企画が掲載されている。

 「日本のパワハラ知ってますか?エディー・ヘッドコーチに問う、日本スポーツ界の"病"」 

彼の経歴や日本ラグビー界への貢献は、今更ここで取り上げるつもりはない。

試合の分析や選手の分析、更に日本人の分析にさえ長けた日本通のエディー、その記事を読めば、日本で起きているスポーツ界の問題点にも、彼がしっかり目を向けているのが窺える。

日本のスポーツとパワハラの問題について問われたエディー、その回答はいかにも彼らしい。

私は自分がやらないことは選手に『やれ』とは言わない。

ルール違反がそのいい例だ。

そういう原理原則のもとに接していけば、大丈夫なはず。

それにも関わらず、信頼、リスペクトが崩れ、それぞれのルールを壊すと、パワハラが起こる。

日本ではコーチが権力を持ち、腕組みしている姿が象徴的だ。

「指導者はみんなより上だ」 というのが、傾向として日本にはあるだろう。

エディーの回答は、オーストラリアのコーチなら誰でも同じことを答えるだろう。

いわゆる模範回答であるが、長い歴史の中で改善される気配は無く、私でさえ、訪日中に日本人コーチによく感じることなのだ。

 

更にエディーは続ける。

「時には厳しくなる必要はある。しかし、厳しさと暴力は異なるものだ」

そして、結論として、エディーはキッパリ断言する。

「暴力がスポーツ指導でプラスになることはない!」

 

インタビューの終盤に、彼は終わった過去がどうだったのかではなく、これからの未来にどう反応していくかの重要性を指摘している。

そして、次のように結んでいる。

スポーツにとって大切なことは、何より健康的な部分だ。

レクリエーションの延長。

英語の「recreation」は、「もう一度、作り直す(re-create=リ・クリエイト)」という意味もあり、それは、自分をよりどれだけいい人間に高められるかにも繋がる。

それは、日本を知り尽くしたエディー独特の説得力のある言葉である。

日本でのコーチングセミナーの開催やNPO法人「日豪スポーツプロジェクト」の運営など、スポーツに関わる者として、こんなエディーの言葉から学ぶものは極めて多い。

ただ、それはエディーの見解であり、それを私自身のものにしなければ意味は無いのだが。

 

もしスポーツの指導に関わるのであれば、例えジュニア(幼い年代)の指導を担当する父母でさえ、エディーが提唱するような一つ一つを常に頭の片隅に置いておくべきであろう。

オーストラリアにルーツを持つエディー、かつて小学校の教員をしていたというエディー、彼の言葉にはその頃培われたベイシックなコンテンツが感じられる。

私の次男はシドニーでカトリック系小学校の教員をしているが、エディーの言葉に通じるニュアンスを感じることが多い。

ある母親から、 ”エディー・ジョーンズ・セミナー” についての興味深いメールが届いた。

息子がこのセミナーに参加したそうで、メールには率直な意見が書かれていた。

 

先日、エディーさんのセミナーを見学しました。

遅れてはいけないと思い早めに家を出ましたが、開始の時間が随分遅れました。

司会の方の話では、エディーさんと指導者の打合せが長引いているということでしたが、グランドは吹きさらしで、寒い中で待たされる子供達は本当に可哀想でした。

 

司会の方が、時間稼ぎのように寒い中で子供たちに「今日はエディーさんに何を教わりたいですか?」という質問をしていましたが・・・

マイクを向けられ逃げる選手も多く、自分の意見を答えられる選手はほとんどいませんでした。

エディさんのことは知っていても、やっぱり最近の子なんですね。

今日何が学びたいのかも、何が学べるのかも知らず、「先生に言われたから来た」という選手が多かったように思えて仕方がありませんでした。

 

エディーさんは 「ダメ」 という言葉をよく使いますが、親として、私達は普段子供達にその「ダメ」という言葉を出来るだけ使わないようにしていましたので、ちょっと残念でした。

写真はハンターズヒル・ラグビークラブU13の日本遠征2008に帯同した母親軍団である。

シドニーの中心部から車で30分ほどが本拠地のラグビークラブである。

世界中、共通しているが、父親とは違い、忖度(そんたく)しない母親の目はとても厳しい!

 

”エディー・ジョーンズ・セミナー” に息子を参加させたという母親のメールには、母親の視点で率直に感じたままが書かれ、実に教えられることが多い。

私は、その母親に私なりの考えを率直に返信した。

あくまでも私の考えであり、それが正しい見解と言うことではないので悪しからず。

 

「エディーと日本側のコーチ陣とのミーティングのためにセミナーの開始が遅れている」

司会者はそう説明したそうですが、その遅延が、エディの責任なのか?主催者側の責任なのか?私には分かりません。ただ、完璧を求めるエディーのことですから、準備の出来ていない日本側スタッフにエディーがイライラしたのが遅延の理由でしょう。

例えどちらの責任にしても、開始時間が遅れたのはNGであり、許されないことでしょう。

エディーは、もし公式戦前のミーティングのためにキックオフに遅れたとすれば、どうなるかを知っているはずで、寒い中に放置された少年少女の置かれた状況を誰かがエディーに伝えることは大切なことだと思います。

 

更に私は続けた。

それは言い訳出来ない言語道断のマナー違反であり、常々エディーが提唱する信頼やリスペクトを欠く行為でもあります。

もし、主催者側が子供達の状況を知っていたのであれば、パワハラに近いとも言えるでしょう。

エディーがそれを知っていたのか? 実に興味深いところです。

もし、エディーがそれを知っていたのであれば、忖度せずに厳重に抗議するべきでしょう。

ただ、それをしないのが日本人の美徳と思っている組織(主催者)側役員は多いと思います。

そんな役立たずが組織を動かしているをよく見掛けます。

その状況を説明して抗議すれば、エディーは率直に謝罪したでしょう。

そんな言葉で私は返信を締め括った。

 

「今日は、何を教わりたいですか?」という子供たちへの司会者の質問。

世界的なコーチの到来に司会者自身がハシャイでいるのか?それとも、単に時間繋ぎなのか?

まあ、詰まるところ、言うに事欠いて司会者が発した何の意味も無い質問なのだろう。

子供たちが逃げ回るのは、それが子供たちの回答だった!と考えるべきであろう。

「そんなことどうでもいいから、早く始めてよ!」

子供たちはそう言いたかったはずだ。 

 

逆に司会者に聞きたいものだ。

「あなたは子供達からどんな回答を聞きたいのですか?」

子供たちが「戦略」「戦術」「アタックやディフェンスのシステム」などと答えるはずも無く、「パス」や「キック」と言えば、わざわざエディーを呼んでまで指導してもらうことではないし、「ラグビーの楽しさ」などと回答すれば、純粋な子供たちの回答とは思えない。

本当に馬鹿げた質問であり、呆れた司会者である。

かつて、キャンピージーを連れて訪日、日本で開催したセミナーを思い出す。

司会者が、「キャンピージーさんのスピードは凄いですが、100mは何秒で走りますか?」

それを通訳すると、「そんなの計ったこと無い!」と彼は不機嫌になり、私が「明確に計測したことがないそうです」と適当にはぐらかすと、司会者は「では、50mは?」

キャンピージーは後ろを向き、「こんな質問が続くなら、俺は帰るゾ!」とコソッと言った。

司会者と事前に打ち合わせをしなかった私にも責任はあるが、国会の質問じゃあるまいし、事前にどんな質問があるかまで準備するのは無理である。

 

司会者が子供達にそんな質問をするくらいなら、むしろ子供たちと集まったスクールの指導者に「今日は子供達に何を教えて欲しいですか」と聞くべきだっただろう。

指導者全員がエディーと打合せ中だったはずは無かろうに。

長年セミナーを開催してきたが、当日の朝にプログラムの打合せをすることなど考えられない。

 

エディーに限らず、外国人コーチはどうしても発音し易い日本語を使う傾向がある。

「ダメ」 は、その一例だろう。

エディーは「ノー」と言うより「ダメ」と言った方が子供達には分かり易いし、動いている最中に伝わりやすいと考えたのであろう。

こうした方がいいよと回りくどく言うよりも、イエスorノーのハッキリした外国人コーチは明確に言い切ってしまうことが多いのは確かである。

もちろん、なぜダメなのかを選手達に理解させることは大切であり、それを理解出来る年齢に達していない場合は、日本側の指導者がフォローすることも大切なはずだ。

 

”何かに挑戦しようとする子供達の意欲を削ぐ” という意味から、この母親は「ダメ」という言葉を使わないようにしているのだと思うし、きっと、それがスクールの方針なのだろう。

それを理解出来なくはないが、指導者に確固とした知識やビジョンがある場合、私は、「ダメなものはダメ」とハッキリ言う方が選手には有益であると考える。

スポーツにルールがあるように、「ダメなものはダメ」という意識を持たせることは、決して悪いことではないはずだし、出来た時にその2倍も3倍も褒めて欲しいものだ。

 

指導者も常に自分自身に「ダメなものはダメ」という意識を持つべきだろう。

「時間に遅れたらダメなのだ!」そして「 選手を危険(寒さ)に晒したらダメなのだ!」

指導者自身が自分のダメを減らすことが選手達のダメを減らす近道ではないだろうか?