永遠なれラグビーの青春 | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

NHKBSプレミアムで放映された 「君に最後の別れを~永遠なれラグビーの青春」を観た。

太平洋戦争の戦時下、開戦当初は政府が積極的にスポーツを奨励するが、戦局が不利になるに連れ、スポーツ選手達は理不尽な扱いをされるようになる。

ラグビーに関して言えば、それまで盛んに行われていた大学同士の対抗試合は、公式戦や定期戦まで全面的に禁止されたり自粛を迫られるようになった。

その後、改善されることは無く、そのまま学徒出陣へと突き進むが、そんな時代に在って、このドラマは東京大学ラグビー部の部員達のラグビーへの情熱や破天荒な学生(若者)らしい発想や行動を描いたノンフィクションである。

国家の意向に翻弄されても、学生達の誰もが出征する前に一度でいいから試合がしたいと願う。

そして、毎年定期戦を繰り返して来た京大(京都大学)に秘密裏に試合をしようと持ち掛けるが、その結果、双方の意見が纏まるのだ。

しかし、時は戦時下であり、官憲の目や移動手段など様々な面で障害は多く、学生達はOBの力も借りてその試合の実現に向けて懸命に努力する。

 

"少年をいちはやく大人にし、大人にいつまでも少年の心を抱かせる"

そんなラグビーを表す言葉通り、見つかれば逮捕は必至の戦時下、その緊迫した時代に在っても、学生達は出征という大人の覚悟を持ちながら少年のような心を抱いていたのだ。

 

第二次世界大戦中にシンガポールに駐留したオーストラリア軍とイギリス軍双方の兵士達が、テストマッチ(国同士の対抗試合)さながらのラグビーの試合を行った史実やその記録が残っているが、日本にもそれに近い歴史の片鱗が存在したことは、驚きだった。

 

ただ、戦争は双方の若者達の運命を大きく変えてしまう。

戦地でさえも真剣にラグビーの試合をプレーしたオーストラリアやイギリスの若い兵士達のほとんどが、シンガポール陥落と同時に日本軍の捕虜となり、泰緬鉄道(タイとビルマを結ぶ鉄道)建設という地獄の労役に駆り出され、その多くが病気や栄養失調で命を落とした。

写真は1938年のワラビーズ、内3名がシンガポールに出征し、泰緬鉄道に送られた。

中段左から2番目は日系人のブロウ井手選手である。

父の祖国と戦い、日本軍の捕虜となった彼は、日本への移送中に命を落とす。

彼の数奇な運命は著書 「死に至るノーサイド」 に詳しく記されている。

片や日本では、学徒出陣で出征する学生兵士達の多くが、南方などの激戦地に送られたと聞くが、ラグビーに青春を燃やした彼らの辿った運命を考えると、本当にやり切れない思いだ。 

ただ、幸いにも東大ラグビー部員は全員無事に日本に帰還したことをドラマの最後に知った。

 

1889年、慶応大学で日本で初めてラグビーがプレーされたのを知る人は多いが、慶応に次いで、1910年に京都大学(旧制第三高等学校)でプレーが開始されたのを知る人は少ない。

その後は、1911年に同志社大学、1918年に早稲田大学、そして、東京大学は5番目の1921年、1922年に明治大学と続く。

日本ラグビーフットボール協会が設立されたのは1926年だった。

 

京都での試合が決定し、東大ラグビー部の選手達は、官憲の目を避けるために、バラバラに京都入りを試みる。

移動中の列車の中、2人の東大ラグビー部員の座席の前に官憲と思わしき軍服を身に着けた軍人が座ったが、その目付きは厳しく、怪訝そうに2人を見て、行き先を尋ねるシーンがある。

2人は親族の「葬儀のため」「法事のため」と予め用意していたその場しのぎの返事を返す。

そんな付け焼刃の言葉が憲兵に通用するはずは無い。

「お前達、東大ラグビー部の選手か? 襟元にスイカジャージが見えているぞ!」

東大ラグビー部の公式ユニフォームは、昔も今も伝統的にスイカのような色合いなのだ。

身に着けてさえいれば調べられないと思ったことが裏目に出た。

ホックが外れた学生服の襟元から、スイカジャージが見えているのに気付いた時は遅かった。

「対外試合は禁止のはずだが・・・」

TVの前の私にまで緊張感が走り、あ~あ、万事休す!と思えてしまう。

対戦相手を聞かれ、東大の2人は頑なにその返答を拒む。

京大側に迷惑が掛かるのを危惧したに違いなかった。

「さしづめ、対戦相手は京都大学だな」

「・・・・」

憲兵の目力と尋問のような言葉の威圧感に、私まで手に汗を握るシーンだった。

「俺はタイガージャージだ、慶応大学ラグビー部だ」

その一言で、私の肩の力は抜け、こわばった顔の肉がホッと緩むようだった。

そして、憲兵は 「思い切りやってこい!」 と2人に声を掛け、静かに目を閉じる。

それが事実かどうかは別として、ラグビー仲間の良さを感じさせ "泣けるシーン" だった。

私の記憶のままに書いたので、実際のドラマとは多少相違があるかもしれない。

その憲兵役を演じていたのが鍛冶直人君という早大ラグビー部の後輩だったことは驚きである。

機会があれば、いつか彼に会ってみたい。

 

そのシーンを観ながら、早大ラグビー部に入部したての頃の思い出が蘇って来た。

私は昭和50年に早稲田大学に入学し、ラグビー部に入部したが、当時、OB会を動かしていた中心人物は小林忠郎先輩と言われていた。

日本協会や関東協会でも強い権限を有しており、誰もが "コバチューさん" と愛称で呼んでいたが、私達現役にとっては泣く子も黙るような存在だった。

先輩方からの申し伝えとして、コバチューさんは、早大卒業後に陸軍中野学校に進み、極めて高等な厳しい教育を受け、戦時下には官憲に属されていたと聞いていた。

私の祖父は、終戦まで、今も東大の近くに在る元富士警察署に奉職する特高刑事だったため、幼い頃、母からよく特高刑事や憲兵の怖さを聞かされたことがあった。

また、私が入学する前年(昭和49年)、ルバング島から小野田少尉が日本に帰還し、その際に陸軍中野学校が取り上げられたことで、その高等且つ厳格な教育、そして優秀な卒業生をたくさん輩出しているのを私は知っていた。

ただ、入部したばかりの私がコバチューさんと面に向かって話す機会などあるはずもなく、私は "怖いコバチューさん像" を頭の中で描き膨らませていた。

 

東伏見の早大ラグビー部寮には玄関の隅に一台だけ公衆電話があった。

上級生を中心に、練習以外の時間はいつも決まって誰かが "たぶん" 女性と長電話をしていた。

電話代の管理を4年生の委員が担い、月に一度、鍵を開け、大量の10円玉を布袋に入れてOB会本部に届けるのだが、なぜか、届ける役目を1年生の私が任された。

届け先は銀座、当時監督だった日比野さんが経営する陶器の老舗「陶雅堂」の2階、確か名前は「読売広告社」だったと記憶している。

西武新宿線で高田馬場まで出て、東西線で日本橋まで行き、銀座線に乗り換えて・・・ 

栃木県宇都宮市の田舎者の私でも、何とか辿り着くことはできたが、ドアを開けると、そこにコバチューさんが待っていた。

コバチューさんと直に向き合うのは初めてだったが、私はドキドキして落ち着かなかった。

それには、ある理由があったからだ。

 

4年生は、ただ「これを届けて来い」と言っただけ、会社名と住所だけを渡され、電車賃もくれず、コバチューさんが待っていることも話さなかった。

高田馬場までは定期券があったが、私は勝手に布袋の10円玉を使い銀座までの切符を買った。

昭和50年当時、きっと60円ぐらいだったはずだ。

 

何も言わずに電話代の入った布袋を渡したが、その袋の中の金で勝手に切符を購入したことがコバチューさんにバレて、その尋問をされるのではないか?と思うと、気が気でなかった。

とにかく、先輩方から伝え聞いた陸軍中野学校、憲兵という先入観があり、笑っていても、コバチューさんの目の鋭さや声の調子が、私を固まらせた。

正に、あの東大生2人と一緒だった。

「おお、宇都宮の加藤、ご苦労だったな」 

コバチューさんは布袋を机の上にポンと置き、私を労った。 

私の同期にはもう一人加藤がいた。

彼はコバチューさんと同じ大分県出身であり、コバチューさんは私を宇都宮の加藤と呼んだ。

早大ラグビー部には宇都宮高校出身のOBが数名おり、コバチューさんは敢えて宇都宮を話題にすることで、私の緊張を解き、リラックスさせようとしてくれたのだろう。

 

それでも、私のドキドキは治まらなかった。

思わず、私は 「すみません!その袋から電車賃60円を使いました!」と言って頭を下げた。

きっと私の挙動不審に何かあると見抜いていたはずのコバチューさんが言った。

「そうか、そうか、それでお前は緊張していたんだな・・・」と大声で笑った。

「帰りの電車賃、それとラーメンでも食って帰れ!」

そう言って、1,000円札を1枚渡された。

 

憲兵と東大ラグビー部の選手2人の遭遇シーンを観ながら、私には懐かしい思い出が蘇った。