亡き友を想う瞬間 | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

昨年、シドニーで行われた長男の結婚式に日本から兄夫婦が出席することになった。

「何か欲しいものはないか?」

日本を出発する数日前に、兄からそんな電話が掛かって来た。

「そうだなぁ、やっぱり、きんとん饅頭かなぁ」

そんな私の返事に、電話の向こうで兄と義姉の笑い声が聞こえて来る。

栃木県塩谷郡高根沢町、東北本線宝積寺駅近くの朝日屋という和菓子屋で販売されている饅頭で、明治時代から手作りされ、製法や味は今も変わっていないという。

栃木県人のローカルスイーツであり、私に言わせればソウルスイーツ(魂のスイーツ)なのだ。

おせち料理のきんとんをそのまま独特の柔らかい生地で包んだ饅頭で、味は確かに幼い頃の記憶と変わらぬ美味しさだった。

包装紙も独特で、私が記憶している50年以上前から変わっていないのではないだろうか。

宇都宮の駅デパート(呼び名は色々変わったが、私は今も駅デパートがぴったり来る)や駅の売店には、その包装紙に包まれた大小の箱がうず高く積まれている。

福島の薄皮饅頭、広島のもみじ饅頭、どこそこの温泉で売られている温泉饅頭・・・

日本中にご当地饅頭は数々あれど、私にとって饅頭の原点は、やはり「きんとん饅頭」なのだ。

 

私の父は高根沢町中阿久津(宝積寺駅が最寄駅)で生まれ育ち、その界隈に親戚も多く、行き来の際に、いつもこの「きんとん饅頭」が挨拶代わりの土産として使われた。

幼い頃からこの味に慣れ親しんだが、高校生になると、宇都宮っ子は「餃子」に変わり、その後大学生、社会人となれば、食べる機会はほとんどなくなってしまう。

 

シドニーに移住して30年、仕事で訪日の際、父や母が健在だった頃はよく里帰りをした。

私の実家は東北本線宇都宮駅と宝積寺駅の間の岡本駅の近くにあるが、今も畑が残る閑静な田舎町で、実家の前には父や母が愛し、現在も兄や義姉が耕す野菜畑が広がっている。

炊き立てのご飯に畑から取ったばかりの野菜の美味しさは、今も忘れていない。

私が里帰りをする度に、必ず顔を見せてくれる親友がいた。

私が連絡を入れる前に、彼は必ず私の帰郷をどこかから聞きつけひょっこりやって来る。

まるで田舎の温かさを絵に描いたような男だった。

菅又佳郎 ー 地元を愛し、家族を愛し、仕事を愛し、母校を愛し、そして友を愛し・・・

自分に関わる全てを大切にする男であり、保険代理店や旅行代理店を経営していたが、社長自ら足繁く顧客を訪問し、真心のこもった仕事を心掛けるナイスガイだった。

そんな彼の人柄や仕事ぶりは地元住民からも高く評価され、彼は高根沢町会議員を務めた。

そんな彼が、10年ほど前に突然他界した。

彼の人柄を愛し、信頼していた母や兄、そして友人から彼の悲報がシドニーの私に届いた。

里帰りすれば必ず会える、そう思っていた彼はもういない・・・ 

悲しい!以外の言葉が私には思い浮かばない。

私が実家を出発する朝、彼は必ず「きんとん饅頭」を手に実家に顔を出した。

私を「とっちゃん」と呼び、「とっちゃん、次の里帰りはいつになるんだい?体に気をつけろよな!」という飾らない彼の栃木弁に、私はいつも心癒された。

 

彼は宇高(宇都宮高校)の1年先輩だった。

全校生1,000名ほどの高校で、学年が違えば話す機会はほとんど無い。

部活などが違えば尚更である。

私は「ラグビー部」、彼は「生物部」、動と静とで二人が交わる可能性は極めて低かったが、彼が運動部員以上の「アクティブ生物部員」であることを私は知っていた。

 

彼が3年生、私は2年生、共に伝統の宇高弁論大会に出場する機会があった。

毎年100年を超す歴史ある宇高の講堂で開催されるが、かつては小説家の故立松和平先輩や後輩の枝野立憲民主党党首もこの弁論大会の檀上に立ったと聞く。

私の題目は、「このペットブーム、母にとってのペット僕たち」。

親離れしない我ら若者たちと子離れしない親たちがテーマだった。

彼のテーマは、生物部員らしく「こしひかり」についてだった。

彼の実家は塩谷郡の農家である。

1956年(昭和31年)に命名登録された「こしひかり」、1970年代後半から日本の作付面積1位を独占した銘柄米について、彼はユーモアを交えながら熱弁した。

思い起こせば、双方のテーマは今の時代につながる内容であり、今になって私は彼とあの弁論大会の思い出を語り合ってみたかったと思うばかりだ。

 

私と同じ東北本線や日光線で通う彼と、どちらからともなく話すようになった。

彼の言葉や振舞いには1学年下の私に対する敬意が感じられ、それが、それまでスポーツ系の仲間ばかりだった私にとって、とても新鮮に感じられた。

ただ、そんな友情が深まる前に彼は卒業、大学、社会人、私はオーストラリアに移住・・・ 

その間に彼と話す機会は無く、そのまま縁は途絶えたままだった。

それでも、縁を大切にする彼のキャラクターのお陰で、まるで親戚のような関係が私の両親や兄夫婦へと引き継がれ、私は彼と再会する機会に恵まれたのだ。

 

私は彼ともっともっと語り合いたかった。

そして、誠実な彼が町会議員から県政、国政へと活躍の場を広げるのが私の夢だった。

もちろん、彼は私の心の中で生き続けているが・・・

彼に会いたい!

植物を愛した彼の言葉や振舞いには、いつも物事に対する「草の根の心や精神」が感じられた。

彼はよく私に言った、「大切なのは、根っこなんだよ!」と。