ラグビーで結ばれた友情 1 | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

私達家族のシドニー移住の際、私は単身88年12月末にシドニーに到着した。

家族(妻と長男/3歳、次男/1歳)は、翌89年4月に遅れて到着した。

まず、私が目指したのは、家族が安心して暮らせる住居を確保することだった。

知人の紹介から、私は1900年創立のイースタンサバーブズ・ラグビークラブ(イースト)を訪ね、ライフメンバーのキアレン・スピード氏(大手不動産会社の取締役)に相談した。
 

イーストは67年に日本遠征を行い、全日本(日本代表)を含む6試合を戦っている。

当時の日本ラグビー界、海外からの強豪チームの来日は少なく、時の総理佐藤栄作氏の首相官邸にまで招待されるほどの歓迎ぶりだったそうだ。

スピードさんはその日本遠征に12番センターとして参加したが、遠征から50年を超えた今も、心から日本を愛するオーストラリア人の1人なのだ。

 

イーストの日本遠征の翌年、68年に全日本はニュージーランド&オーストラリア遠征を行い、あの伝説のオールブラックスジュニアを23-19で破る快挙を成し遂げる。

その勝利は伝説として永遠に語り継がれるだろうが、特筆すべきは、その試合で4トライを記録した全日本のウィング坂田好弘氏だろう。
67年のイーストの日本遠征で、スピードさんは全盛期だった坂田先生(25歳)の突進をことごとく低く突き刺さるタックルで止め、「近鉄Vイースト」の試合では0-25で一度もゴールラインを割らせなかったそうだ。

遠征中の試合に関する古い新聞記事を振り返る2人は、まるで少年のようだ。

日本の新聞とオーストラリアの新聞の切り抜きが丁寧にスクラップされ、日本の新聞記事には写真と共に試合内容が記載されているが、確かに「近鉄TB坂田突進したが、豪TBスピードのタックルに潰される」とコメントが添えられている。
写真は色あせても、2人の脳裏にはその瞬間が明確に蘇っているのが私にも伝わって来る。

イーストの日本遠征から50周年の今年、それを記念したパーティーの開催が決定した。

スピードさんはそのパーティーの招待状を坂田先生に送り、先生は二つ返事でそれに応じた。

折しも、2019年ラグビーW杯、20年東京オリンピック・パラリンピックに向けた日豪友好の催しがシドニー総領事館公邸で開催され、そのパーティーへの招待も日程に加わっていたが、坂田先生は「僕にとってメインは50周年のパーティー!」とキッパリ言い切った。

私の家族にとって、スピードさんは大切な存在であり、息子達も彼を尊敬している。

4月に日本で行われた次男の結婚式には親族として参列してもらったほどだ。

 

今回は、私もエスコート役としてスピード家に泊まり、素敵な時間を共有させてもらった。

話が尽きないのは、ラグビー仲間ならどこの世界でも一緒に違いない。

翌朝、近所に住むスピードさんの息子ジェイソンも途中から登場。

父親と日本から訪れた父親の親友、そこに息子が加わり、ラグビー談義でエンジョイする彼らを眺めながら、ラブリーで洗練されたオーストラリアの朝のひとときを感じた。


スピードさんと坂田先生の尽きない会話は、タックルに始まりタックルに尽きるようだ。

スピードさんは坂田先生をデミと呼ぶ。

小さなデミタスカップから来ているとか、日本のチームメイトが目の大きな先生をデメと呼んだとか、そのニックネームには色々な説があるようだ。

 

「デミ、お前は俺を一度もペネトレイト(突破)できなかったよな!」

タックル自慢を何度も何度も繰り返すスピードさん、2人は完全に50年前に戻っていた。

「本当はイン・アウト・インで突破出来たんやけど、キアレンが気の毒だからタックルされたんだよ」と笑う坂田先生、手を蛇のようにくねらせ、「そうそう、デミのあの動きは独特で凄かったよな」写真をとっかえひっかえ、どこまで話しても尽きないのだ。

確かにタックルへの思いは深く、してもされても、そのシーンを忘れないものだ。

痛いからなのか? その痛みを超える勇気が必要だからなのか?

 

その日の夜に開催された総領事館での2020年オリパラの日豪有効パーティーに3人で出席したが、その席で38年ぶりに林敏之氏に再会した。

38年前、私の学生時代最後の試合となった大学選手権準決勝、対戦相手は同志社大学、そして私の対面は当時2回生だった林選手だった。

同志社大SO森岡選手の蹴ったドロップアウトのボール、そのボールをキャッチした瞬間に受けた林選手のタックルを私は今も忘れない。私は数m飛ばされたはずだ。

パーティの席で、その話が私の林氏への再会の挨拶代わりとなった。

ラグビー界のメジャーな領域を歩んできた林氏にとっては数千回の内の1回かもしれないが、私にとっては忘れられない特別なタックルの思い出なのだ。

「相手を壊すか、自分が壊れるか、とにかく必死でした!」

"壊し屋" の異名を取る林氏らしい返答が戻って来た。

タックルはやはり彼のラグビーの原点なのだろう。

 

スピードさんは私達家族の身元保証人になってくれている。

シドニー到着直後に、不動産業界で働く彼が紹介してくれた住居に20年間住み、そこで息子達は幼稚園から大学まで快適に暮らすことが出来た。

そして、随分以前にスピードさんが坂田先生を私に紹介してくれた。

定期的にニュージーランドを訪問されている坂田先生がシドニーに立ち寄り、その際にスピードさんから「日本のベストフレンドを紹介するから」という夕食の誘いがあった。

坂田先生は日本のラグビー界を代表するレジェンドであり、憧れであり、遠い遠い存在のスーパースターだったが、そのような存在の先生をスピードさんは事も無げに私に紹介した。

あれから25年、ラグビーで培った日本とオーストラリアを結ぶ2人の深い深い絆(友情)、その片隅に加えてもらえたことは、私にとって大きな喜びである。

 

私の兄は、自著「死に至るノーサイド」に次のように記している。

日本人としてインターナショナルプレーヤーと言えば、現大阪体育大学ラグビー部監督の坂田好弘が筆頭だろう。近鉄時代の坂田選手はウィングとして3人のタックラーを引きずっても走ったという。彼は昭和44年にニュージーランド留学でカンタベリー州代表となり、オールブラックスにあと一歩まで迫った。

 

スピードさんから伝説のプレーヤーに紹介され、私はその出逢いの感動を手紙にしたため、兄が私の実体験を描き、93年に出版された「死に至るノーサイド」を同封した。

「読み進みながら、ニュージーランドに留学した頃の思い出が浮かんで来て、涙が・・・」 

坂田先生から心のこもった謝礼の手紙が私の元に届いた。

 

「近鉄時代に3人のタックラーを引きずっても走ったのに、なぜスピードさんには・・・」

私の質問への2人の反応が、最初の写真の笑顔だった。