「イースタンサバーブズ・ラグビークラブ日本遠征50周年記念パーティー」の開催当日の早朝5時、スピードさんは坂田先生と私をボンダイビーチに誘った。
サーフクラブ内のジムで20分間ジムトレーニングでウォームアップ。
その後40分、テラスで若者に交じってピラテス・クラスに参加、インストラクターはドラマ「ボンダイ・レスキュー」に出演しているムキムキのイケメン "アンソニー" だった。
それから海に出てスイミングを20分。
クラブでシャワーを浴び、ボンダイパビリオン前のカフェで仲間と情報交換(世間話)をする。
それがスピードさんの送る毎朝の日課であり、実に健康的というか過激ともいえる。
「まるで、スピードさんは修行僧のようだ!」と坂田先生は言う。
スピードさんはこのボンダイビーチでの "早朝のおつとめ" を50年以上続けている。
それでも、薄暗い内からボンダイビーチに人は多く、老若男女を問わず、その誰もがすれ違いざまに 「How are you? Keiran」 とスピードさんに声を掛ける。
彼はボンダイビーチの主(ぬし)なのだ。
モーニングティーを飲みながら、私は坂田先生に尋ねた。
「オールブラックスジュニアを破ったのは確か68年でしたね。来年は50周年ですが、あのNZ遠征を記念したパーティーは開かれないのですか?」
「あの遠征後に桜とシダの会が組織されてね、色々な集まりがあるにはあったのですが、」
なぜか、坂田先生からの明確な返答は聞き出せなかった。
50年を境に解散するかもしれないという話もあるようで、私が真相を知る由もないが、人それぞれに価値観の違いに言いようのない寂しさを感じておられるようだった。
土曜日のランチタイム、イースタンサバーブズのクラブハウスには、三々五々、50年前に日本に遠征したレジェンドたちが続々と集まって来た。
70代半ばを超えているのにその誰もが矍鑠(かくしゃく)としている。
久しぶりの再会を喜び、ビールを酌み交わしながら懐かしい思い出話に花が咲く。
そして、このパーティーのためにわざわざ日本から駆け付けた坂田先生(遠征中の対戦相手として、全日本・近鉄の2試合に出場)を誰もが歓迎し、その貴重な再会を喜んだ。
50年前の写真やメンバー表を何度も取っ替え引っ替え見ては、互いを確認して喜ぶ姿に、ラグビーで結ばれた友情の深さや素晴らしさを感じ、私まで嬉しさが込上げて来た。
遠征の記録は50年経った今も丁寧にファイリングされ、個々に思い出の写真を持参していた。
坂田先生と懐かしい写真を確認するジョン・コックス氏はゴールキッカーだったそうだが、当時の彼の記録は、100年以上続くクラブの歴史で、今も破られていないそうだ。
67年の遠征後、この遠征メンバーが中心となり69年にクラブ選手権で優勝するが、準決勝の終了間際の彼の劇的な逆転ゴールが無ければ、決勝には進めなかったそうだ。
テストマッチには、試合終了後にお互いの健闘を称えジャージを交換する伝統がある。
テストマッチとは国代表同士の試合をいうが、50年前の「全日本Vイースト」の試合はテストマッチではないため、ジャージの交換は行われなかったそうだ。
日本遠征のキャプテンだったデビッド・ホワイトヘッド氏は、翌68年の全日本のニュージーランド&オーストラリア遠征時に受け取ったという全日本の公式ジャージを持参した。
50年前に全日本と対戦した時に交換した思い出ジャージ、彼がそれを持参した理由は坂田先生のクラブ訪問に対する感謝の気持ちが籠められていたに違いない。
その日、彼はそのジャージをクラブに寄贈した。
そのジャージはクラブハウスの壁に飾られ、若いプレーヤーはもちろん、クラブを訪れる誰もが1967年に行われたイーストの日本遠征を知ることになるだろう。
その日にクラブで出逢った一人一人の誰もが紳士であり、フレンドリーであり、マナーも良く、私も彼らのように年齢を重ねたいものだと思った。
遠征には直接関係の無い私まで集まった全員から歓迎され、昔から大切に守られてきたクラブのスピリットというか伝統の素晴らしさを肌で実感することができた。
実は、このクラブは私の息子2人がプレーしたクラブであり、私や妻は92年から毎週のようにこのクラブを訪れ、長年クラブメンバーにもなっていたのだ。
98年に私はスピードさんを連れて訪日、30年前の日本遠征の訪問地や試合会場(福岡、大阪、天理、東京)を案内する機会に恵まれた。
遠征中にメンバー全員で宿泊したという芝パークホテルにも2人で宿泊した。
そして、今年4月には、東京神田明神で行われた次男の結婚式にスピードさんを招待し、間も無く取り壊される芝パークホテル旧館のラグビーバー(フィフティ―ン・バー)を再訪した。
スピードさんは、私達の2人旅をかつての日本遠征メンバーに伝えていた。
「Toshi、キアレンを日本に案内したのは君だったんだね」
メンバー全員が私をこの会の一員として認めてくれたのは、やはりスピードさんのお陰なのだ。
2019年には、W杯観戦を兼ねて、再び全員で遠征地を訪ねようという話題で盛り上がった。
もちろん、それには私も日本の案内役として誘われた。
スタッフ・選手を含め30名弱の1967年の日本遠征。
50年後に20名が母なるクラブに戻って来た。
彼らの多くが国や州の代表としてニュージーランドやヨーロッパ諸国の遠征に参加しているが、あの日本遠征は忘れがたい特別の思い出になっているようだ。
芝パークホテル、鞘ヶ谷グラウンド(八幡製鉄グラウンド)、プライムミニスター”サトウ”(首相官邸への招待)、ギンザ(1豪ドル/400円の時代、彼らはどのバーでも飲めた)・・・
彼らの口から様々な固有名詞が飛び出すほど、50年前の記憶は鮮明に残っているようだ。
スピードさんには座右の銘がある。
「Rugby opens many doors(ラグビーは多くのドアを開く)」
その言葉を聞いて、共感するラグビー関係者は多く、私もその一人である。
ラグビーが開いてくれたドアを開けるのも、中に進むのも、きっとその人次第なのだろう。
今回、また新たなドアが開き、そのドアから中に進めたことはこの上ない喜びである。