オーストラリアからイケメン留学生がやって来た 2 ー 意外な展開に | オーストラリア移住日記

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イケメン留学生ダニエルの弟や両親と夕食を共にした。

日本食を喜び、何でも美味しそうに食べる彼らの笑顔が、私を喜ばせた。

竹の杯(さかずき)で日本酒を楽しみ、両親は「ワンダフル」を連発して喜んだ。

日本酒の影響もあって母親ジャネルも元気になり、父親のポールがダニエルの話を始めた。

 

昨年の3月、彼らの住むサンシャインコーストで東海大仰星高校ラグビー部がキャンプを実施、地元の少年代表チームとの親善試合が行われた。

その試合でキャプテンとして地元少年チームを率いたのはダニエルだった。

試合の後に行われたファンクションの際に、ダニエルは日本語でキャプテン・スピーチを行い、東海大仰星の選手達を驚かせた。

そう、ダニエルはあの頃から日本への留学を希望していたのだ。

ポールはダニエルの話を続けた。

「ダニエルは日本の選手達のスピーディーな動きや統率のとれたチーム全体の動きに感動したんだけど、試合を観戦した僕も同感だったよ」更にポールは続けた。 

「8月に別の日本チームと試合をして、ダニエルは本気で日本に行きたいと思うようになったんだよ。幼い頃から日本語を勉強し、文化や歴史にも興味を持っていたからね」 

8月のチームとは桐蔭学園だったが、日本を代表する2つの強豪チームと試合が出来たことが、ダニエルや父親の背中を押したに違いなかった。

 

ポールの話を聞きながら、私は考えた。

ワラビーズの国オーストラリアの少年が日本の高校ラグビーに感動して日本を目指す

世界のラグビー界でも評価される「日本人らしさ」いわゆる ”選手のスピーディーな動きや統率のとれたチーム” を日本の高校生チームが披露し、それが正当に評価されたことが嬉しかった。

 

ポールは彼の経歴や家族の歴史、そして彼らの住むサンシャインコーストについて話し始めた。

彼は、自分の両親はイギリスからオーストラリアに移住して来たと言った。

「僕は、両親の故郷イギリスには行ったことがないんだよ」

そう言って、笑った。

 

両親の移住後にポールはオーストラリアで生まれ、その後の彼の成長する道のりは決して平坦ではなく、山あり谷ありの生活だったようだ。

そのような経験をしたことが、彼の優しさの根源のようだ。

ポールは51歳、私よりも8歳年下だが、その風貌はオーストラリアのドクターそのものだ。

医師の中で最も報酬が高いと言われている麻酔科の責任者を担う名医である。

 

朝な夕なに、サンシャインコーストのビーチサイドを家族とノンビリ歩くのが最高なんだ

日本酒の影響で饒舌になっているポールが、感慨深そうにそう話す。

私自身、何度もサンシャインコーストを訪れ、その美しさやのどかな雰囲気を知っていた。

かつて、シドニーを離れ、サンシャインコーストに住もうかと妻に相談したこともあった。

 

ただ、彼らの住むサンシャインコーストには多くの退役軍人が住み、その中に太平洋戦争中のトラウマから日本人を嫌う元兵士が多いことを私は知っていた。

そのほとんどが、アジアの南方戦線で日本軍と戦い、生き残った兵士達なのだ。

過酷な捕虜体験を強いられた兵士がほとんどで、身内や仲間を失った兵士も多かったようだ。

ちょっと躊躇ったが、私はある話を彼らに投げ掛けてみた。

それまで笑顔で聞いているだけだったジャネルが、突然真面目な顔になり口を開いた。

「私の祖父は、パプアニューギニアで日本軍の捕虜になり殺されました」

一瞬、彼らも私も沈黙した。

 

私は、シドニーに移住した頃に、あの時代の歴史を紐解いた記憶を彼らに話し始めた。

私は日系人ワラビーズ(ラグビー・オーストラリア代表)の消息を追い駆け、日本とオーストラリアの悲惨な戦争の歴史を知り、自ら進んでその歴史を学ぼうとしました。

太平洋戦争中にシンガポールが日本軍によって占領され、彼は派遣先のシンガポールで日本軍の捕虜となり、父の祖国日本への護送中に戦死しました。

その取材中、シドニーでさえ「日本人には会いたくない」と断られたことが何度もあった。
「あなたは、日本とオーストラリアが戦争をしたことを知っているの?」 

ジャネルは真顔で私に訊ねた。

 

私はジャネルを直視し、オブラートを一枚一枚剥すように日系人ワラビーズを探したが、その取材には太平洋(大東亜)戦争を避けては通れなかったと告げた。

私はこの2月に2度キャンベラの戦争記念館を訪ねたことも話した。

キャンベラ戦争記念館の中庭の壁(ロール・オブ・オーナー)には、オーストラリアのために戦死した全兵士の名前が刻まれているが、キャンベラを訪れる度に私は日系人ワラビーズ"ブロウ・IDE(井手)"の名前に花を添えていることも彼らに話した。

ロール・オブ・オーナーには、ジャネルの祖父の名前も刻まれているそうだ。

戦争毎にセクションが別れているため、彼の名前はきっとブロウの名前の近くにあるはずだ。

 

「日本の若者は400年も500年も前の歴史をよく知っているのに、どうして高々70年前の歴史を知らないのかしら?」 ジャネルが私に面白い質問をした。

息子を日本に留学させるのを切掛けに、日本の若者や教育について夫婦で学んだと言う。

シドニーで育った私の息子達は、日本とオーストラリアの悲しい歴史を知っているよと伝えた。

 

それまで、ずっと黙っていた15歳になるダニエルの弟が口を開いた。

「僕は知ってるよそれと、アメリカが広島に原爆を投下し、必要が無かったのに更に長崎に投下したのは、ロシアにその力を見せつけたかったからだよ」 と続けた。

一瞬、私はなるほどと思った。

今までそんな考え方をしたことは無かったし、オーストラリアでは、歴史の授業でそのようなディベート(討論)がなされているのを初めて知った。

 

つい最近「原爆が戦争終了に必要だったか?」というアメリカの若者へのアンケートに、以前は70%以上がイエスと答えていたのが、今では50%を切ったと報道されていた。

その数字云々よりも、私はオーストラリアやアメリカの若者達が戦争への関心や自分の主張を持っていることに、日本の若者達との違いを感じるばかりだ。

 

日本の高校のオーストラリアへの修学旅行が増えているという。
国際交流や若者同士の友好を掲げ、旅行代理店が準備した表面だけの交流が繰り返されている。

「本当の国際交流」「本当の若者同士の友好」・・・

それは本当の歴史を知ることから生まれるのではないだろうか?

 

美味しい新潟の日本酒と食事を楽しみながら、留学生ダニエルの家族と良い時間を過ごした。

「サンシャインコ―ストに来たら、家に来てね」

別れ際に、ダニエルの弟が私に握手を求め、笑顔で言った。