Do you like Japan ? | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

この25年間に何人のオーストラリア人を日本に連れて行ったのだろう?

そのほとんどがラグビー関係者だが、遠征も含めれば200人以上になる。

圧倒的に仕事の訪日が多いが、単に仕事だけに固執せず、時間を有効に使いながら、風光明媚な日本各地を案内したり、素晴らしい体験をさせるのを心掛けている。

私の嗜好に合わせてしまうことが多いが、彼らが楽しんでくれることが私の喜びなのだ。

私が日本で暮らした33年間に訪ねたことの無い場所を訪ねることも多く、それは私にとっても大きな楽しみなのである。

私は故郷ともいえる日光に彼らを連れて行くことが多い。

明知平から華厳の滝や中禅寺湖を見せると、誰もがそのパノラマに「ビューティフル」を連発、意外に日本人にも知られていないナイススポットなのだ。

日光を訪れたほとんどの観光客が車で通り過ぎてしまい、この場所には立ち寄らない。

日光のガイドブックにはよく紹介されているが、地元の者だけが知る絶景であり、季節ごとに変わる風景の美しさが訪れた者を喜ばせずにはおかない場所なのだ。

 

それから、オージーを連れて行って間違いなく喜ぶ場所は、意外にも温泉なのだ。

確かに美しい景色や壮大な景観はそれなりに喜ぶが、そういった視覚の満足よりも、彼らはアトモスフェア(雰囲気)を喜ぶ傾向が強いように感じる。

オージーとして育った息子たちを京都や奈良に連れて行き、三十三間堂から始まって、清水寺、奈良の東大寺などを回ったが、彼らの反応は「テンプル イズ テンプル」だった。

千体に及ぶ仏像にも大仏にも興味を示さなかった。

半面、温泉やコンビニ、繁華街などでは大ハシャギだったのだ。

 

それもあって、オージーを連れた訪日なら、私は必ず温泉を訪ねることにしている。

土地土地、季節季節の "祭り" も、日本独特の雰囲気が感じさせることが出来る。

そう、それもオージーが喜ぶスポットの一つだ。

日本で暮らした頃に、祭りに出掛けた記憶に乏しい私は、気が付けば彼ら以上にその雰囲気にどっぷり浸って愉しみ、彼らもそんな私につられて愉しんでいる。

私自身、改めて日本の文化や歴史の深さ、そしてその心地良さを再発見することが多い。


今は良い時代である。

オージー達は、祭りの露店に群がって何でも買ってもらえる子供達の笑顔を観て日本の温かさを感じているが、私の育った子供の頃は、露店の商品や食べ物を買ってもらえなかった。

もちろん、父や母も食べたいものも飲みたいものも我慢していたのだろう。

オージーたちとビールやたこ焼き、ソフトクリームを、道々楽しみながら、もしここに父や母が居たら、今なら息子の私が幾らでも買ってあげられたのに、などと考えてしまう。

2010年3月、私はコーチ2人を宮城県南三陸町に連れて行った。

東北大震災 "3・11" の丁度1年前だった。

南三陸漁港を訪ね、海産物の仕分け作業中の海の女性たちと愉快に語らい楽しい時間だった。

 

毎年3月に、オーストラリアのコーチ達を連れて訪日し、コーチング・セミナーを開催しているが、その慰労として、いつもは東京近辺だが、なぜか2010年は南三陸町の温泉を訪ねた。

彼らの喜びからすれば、1年後の同じ時期に再度その温泉を訪ねても何の不思議も無かった。

2011年は3月に遠征チームがオーストラリアを訪れ、日本でのセミナー開催を断念した。

その遠征が無ければ、コーチ達を伴って3月9日~10日の週末にセミナーを開催し、11日から南三陸町の温泉に出掛ける可能性は十分あったのだ。

遠征チームが滞在したオーストラリアのホテルで、そのコーチ達とニュース映像を観ながら私は言葉が出なかったが、コーチ達もショックだったはずだ。

私は自分の家族はもちろん、オージー達を母の居る田舎(実家)によく連れて行った。

父は私達が渡豪して間も無く他界、母は私が家族や仲間達を連れて戻るのをとても喜んだ。

母は、いつ戻っても季節の食材を使い、自慢の田舎料理でもてなした。

春には天然のよもぎを摘み、杵と臼で草餅をついた。

夏には目の前の畑から摘んで来たナスを焼きナスにし、おろし生姜で食べさせた。

それと、母の夏野菜の天ぷらは最高だった。

秋にはきのこ汁に手打ちうどん、冬には里芋やゴボウなど根菜のけんちん汁や鍋料理が並ぶ。 

気の利いた今風の料理は無かったが、野菜は全て自分が種を撒き育てたものばかりだった。

母が居た頃、私たちの訪問時の食卓はいつも賑(にぎ)やかだった。

言葉は通じなくても、オージー達に母の心は通じていたに違いない。

早朝、陽気なエディーが居ないのに気付き、外に出てみると、母の畑仕事を手伝っている。

その恰好が実に愉快で、「朝ごはんに食べるんだ」と言って、せっせと野菜を畑から台所に運んでいるのだ。

エディーは母の良きボーイフレンドだった。

クレイグは古い家屋や畳の上で寝るのをとても好んだ。

人格者のスピードさんは、実家を訪れてから母が他界するまで15年間、毎年母にクリスマスカードを送り続けた。

ノディーは奥さんのロビンを連れて母のもとを訪れたが、母よりも先に他界してしまった。

母は私の親友ノディーの死をとても悲しんだ。

私が日本に連れて行った数多くのオージー達、その誰もが、再び日本を訪問したいと望んでいるのが私にはこの上ない喜びなのだ。