日本遠征 ニューポート・ジュニアラグビークラブ | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

オーストラリアのラグビークラブの日本遠征は仕事に関わらず私の最高の楽しみである。

最初の遠征は2003年で、福岡、愛媛、奈良、東京を1週間で移動する強行軍だったが、準備から実際の日本滞在に至るまで、忘れ難い遠征だった。

02年に高校愛媛県代表の豪州遠征のコーディネートを担った縁から、愛媛県で毎年開催される ”久万町杯” への参加のオファーがあり、その大会参加がメインの旅程となった。

私のパートナー、コーチ "ノディー" (05年に他界)が、高校愛媛県代表のオーストラリア遠征のコーチングを担当、当時、ノディーは強豪ワリンガ・クラブのコーチの立場にあり、更に、同地域にあるニューポート・ジュニア・ラグビークラブでの指導にも関わっていた。

 

私にとって、その遠征が初めてのオーストラリア側から日本を目指した遠征だった。

出発直前までノディーはその遠征への ”参加者集め” に奔走したが、その状況は極めて芳しくない状態で、私は何度も何度もノディーと衝突を繰り返した。

「Toshi!俺はこの少年達を何としても日本に連れて行きたいんだ

 ノディーの熱意に押され、私も持出し覚悟で実施することを決めた。

 

最終的に16人のメンバーで出発することになったが、ほとんどの選手が16歳、日本で言えば高校1年生、13歳の中学生やサッカーをプレーする東洋系の少年もメンバーに加わった。

兎にも角にも、スッタモンダの末の出発だったが・・・

後日、ノディー自身が何名かの費用を負担したことを私は知った。

 

その頃、日本チームのオーストラリア遠征の仕事が順調になり掛けていた頃で、私は体裁や収支ばかりを気にして、遠征本来の意義を忘れ掛けていたのかもしれない。

その年に開催されるラグビー・ワールドカップ・オーストラリア大会も頭にあり、「ラグビー強豪国オーストラリア」をアピールすることが、私の仕事を更に発展させると信じていた。

ノディーは他界してしまい、そんな私の反省や悔恨、思い出を話せないのが残念でならない。

 

遠征中に予定した試合相手は、福岡高校、愛媛代表、天理高校であり、出発前にして、ノディーがかき集めた寄せ集めのメンバーが、私の思惑や期待を満足させるとは到底思えなかった。

きっとノディーはそんな私の心を見透かしていたに違いない。

試合後、「どうだ ! Toshi ! 」と言わんばかりのノディーの顔を私は今も忘れない。

それまで何も言わなかったノディーが私に言った。

「Toshi、記念写真を撮ってくれよ!」

全愛媛のメンバーはその年の国体出場メンバーだった。

ノディーには、勝つための戦略や戦術以上に、選手達を信じる心があったのだ。

この遠征メンバーの中から、ワラビーズが2人誕生している。
一人はペカ(Peka Cowan/真ん中で56点を指さし手を上げている選手) 。

スーパー15 ”ウエスタン・フォース” のプロップとして活躍し、09年のワラビーズ・ヨーロッパ遠征に参加した。

もう一人はジョシュ(Josh Holmes/右端から2番目の選手)ワラタスやブランビーズで大型スクラムハーフとして活躍し、11~12年にワラビーズでプレーした。

ニューポート・ラグビークラブのクラブハウスの壁に彼らの名前とジャージが飾られている。

グラウンドで彼らに会えば、「ハーイ Toshi ! 」と、笑顔はあの遠征の時のままだ。 

この遠征で私は多くを学んだ。

オーストラリアの少年達と1週間寝食を共にし、一見頼りなく見える彼らがいかに主体性を持って行動しているかが理解出来た。

ただ、それには良いことも悪いこともある。

久万町杯の翌朝、少年達の部屋に積み上げられた空の缶ビールの山にはさすがに驚いた。

日本なら考えられないし、私はノディーがどう出るか?興味があった。

「俺は先にオーストラリアに帰るから、後は勝手にしろ!」

ノディーは怒り狂い、さすがに少年達は本気でビビったようだ。

ノディーの姿勢、それに対する少年達の姿勢が、私には救いだったが、日本の受け入れ側に迷惑を掛けてはいけないと思い、私はその缶を隠し、宿舎外のゴミ箱に捨てた。

 

2度目の日本遠征は、06年のニューポート・ジュニアクラブの日本遠征だった。

05年7月に愛知県の旭野高校ラグビー部の豪州遠征のコーチングをノディーが担当し、翌年には日本に遠征しようとノディーと2人で企画し、出発の日を指折り楽しみにしていた。

 

05年10月にノディーは突然帰らぬ人となった。

ノディーのことは、以前のブログで紹介している。

ノディーと二人で企画し楽しみにしていた日本遠征を、私は何が何でも実現したかった。

旭野高校ラグビー部は、その年の12月に悲願だった全国大会(花園)初出場を果たした。

その年、7月の豪州遠征時に見せたノディーの指導には鬼気迫る迫力があった。

高校ラグビー激戦区の愛知県で代表になるのは至難の業であり、それを知ったノディーは、キャンプ中、ありったけの精力を選手達に注ぎ込んだのだ。

愛知県予選から花園まで、全試合、スタンドからノディーの遺影が選手達を見守っていた。

ああ、ノディーに会いたい。