学ぶ喜び、学ぶ大切さを知る | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

ブログを書き始めてから今回で100回目になる。

2012年の5月に書き始めたが、例え1人でも読者がいるのは嬉しいことだ。

読み返してみると、私の歩んだ曲がりくねった人生が見えてくるようだ。

日記を書き続ける人は多いが、私はブログ書き続けることが学びの機会となると信じている。

先日亡くなったネルソン・マンデラ氏は、27年間の投獄中に、当時、南アフリカを支配していた "アフリカーナ" と呼ばれる白人達が使っていた言語を学んだという。

来る日も来る日も休み無く、大きな石を砕いて砂利を作る単純作業を強いられ、思考能力はストップし俳人のようになり掛けても、彼は学ぼうとする意志を捨てなかったそうだ。

 

マンデラ氏はその言語を使いこなすことで、看守達とのコミュニケーションを図りながら、"融和の精神の大切さ" に気付き、そこに可能性を見出していったという。

投獄される以前から投獄に至るまで、彼の思考やその姿勢は極めて過激な方向に向かっていたようだが、60年代後半に釈放された彼は、"肌の色による差別を無くすには、融和以外に道は無い" という確信するに至ったようだ。

その後、彼は南アフリカ大統領に選出されるが、その時の確信が彼にとって、また南アフリカにとって正しい道だったのだ。

 

95年に南アフリカで開催されたラグビーワールドカップを描いた映画「インビクタス」には、NZオールブラックスとの決勝戦を前に、南ア・スプリングボクスの選手達が、かつてマンデラ氏が投獄されていたロベン島の監獄跡を訪ねるシーンが描かれている。

キャプテン "フランソワーズ・ピナール" は、その監獄で石を砕くマンデラ氏の幻想を感じ、決勝戦に向かう心構えや勇気をもらった。

 

久しぶりに「インビクタス」をジックリ鑑賞した。

マンデラ大統領が執務室の壁に "対戦表" を貼り、自国のスプリングボクス(南ア代表)を案じるシーンを観ながら、18年前、我家のリビングの壁にも同じ対戦表を貼り、幼い息子達とそれを星取表に代えて、ワラビーズ(オーストラリア代表)の優勝を願ったのを思い出した。

 

開会式直後のオープニングゲームは「南アフリカVオーストラリア」だった。

91年の前回ワールドカップで優勝したオーストラリアは優勝候補の筆頭だった。

"ワラビーズ命" だった私は真夜中の放送にも関わらず、勝利を信じて画面に釘付けだったが、戦う選手達と観衆のほとんどを敵に回し、オーストラリア代表は完敗だった。

 

南アのウィングがガッツポーズをしながらトライを奪うシーンは今でも鮮明に覚えている。

そのシーンが映画にも再現されているが、スプリングボクスの選手ばかりか、南アの全国民にとって、あのトライがどれだけ価値あるものだったかは想像に難くない。

歴史を学んだ今、私は違った観点から、あのシーンを観ることができるようになった。

10月の訪日中に山形で出会ったオージー、農学者のデニスからメールが届いた。

2ヶ月に及ぶ日本の旅から戻った報告と山形で私と出会えた偶然を喜ぶ言葉が書かれ、訪日中、彼が辿ったマニアックな旅行記が添付されていた。

 

私は旅行記へのコメントや私のイギリス一人旅の様子などを書き添えて返信をした。

その返信に、デニスについて書いたブログ「オージー万歳」を添付した。

俳句を理解する学者のデニスなら、きっと日本語の文章を翻訳しようとするに違いない。

私は英語の解説を付けずにそのまま送った。

 

直ぐにデニスから返信があった。
Toshi san,

Great hear from you and, more particularly, thet you had a great time in "The Old Dart" and in the land of my Celtic forebears.

あなたが、"ザ・オールド・ダート" (オーストラリアのスラングでイギリスの意味)、そして、私のケルト人の先祖の地で素晴らしい時間を過ごした詳細を聞くのは実に愉快だ。

続けて、「イギリスが世界に与えた影響や、反逆の精神と権限(特にthe English class system / イギリスの階級制度)に対する反発の念など」が書かれていた。

彼の真意は定かではないが、イギリスの階級制度や植民地政策への嫌悪感が感じられた。

 

そして、私が添付したブログについては、こんなコメントが書かれていた。

I was fascinated to read the blog concerning me - the translation left a bit to be desired but who the bloody hell cares npw that my name is up in lights.

私について描かれたブログを読んで魅了されたよ。望むような翻訳にはちょっと程遠いが、今そんなチッポケなことは問題ではない、私の名前がライトアップされているのだから。
オーストラリアから
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の和訳が正しいかどうかはさて置き、デニスの言わんとする真心のようなものが、私の心にジーンと伝わって来るようで嬉しかった。

" bloody hell" という表現には、デニスが翻訳に苦労しているのと、もしかすると日本語のまま送った私に対する多少の皮肉も込められているのかもしれない。

それでも、デニスの返信は、いかにも学者らしい。

ウェールズの片田舎コンウィーで出会った日本の大学教授に通じるものが感じられる。

著名な詩人である彼の便りも私にはいつも難解なのだが、私に学ぶ楽しさを教えてくれる。

 

デニスに出会った際、彼が芭蕉の句を何も見ずにスラスラと詠んだのをブログに書いた。

彼の返信には、俳句についても書かれている。

芭蕉、蕪村、一茶の句をこよなく愛し、中でも、一茶が我が子の死に際して詠んだ句に最も深い感銘を受けたとデニスの返信には書かれていた。

「露の世は、露の世ながら、さりながら」

"Dew evaporates and all our world is dew, so dear, so flesh, so fleeting"

英訳が添付されていたが、それがこの句の英訳として一般に紹介されているものなのか、デニスのオリジナルな英訳なのか、私には分からない。

一茶が56歳の時に授かった娘の死を悼んで「この世は露のようにはかないものだと知ってはいても、愛しい我が子の死を諦めきれない」と詠んだ句なのだそうだ。

 

私が知る一茶の句は「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」「やれ打つな はえが手をする 足をする」「われと来て 遊べや親の ないすずめ」ぐらいである。

オーストラリア人から俳句を学ぶ。

笑われるかもしれないが、なんて素敵なことだろう。

負け惜しみで一句「デニスより ラグビー語れば 俺が上」 

 

デニスは、「芭蕉や蕪村、また、一茶は私の俳句を認めないだろう」と前置きして、彼自身が日本滞在中に詠んだ英文の俳句12作を添付してくれた。

575ではないが、そのすべての句に、短い単語を駆使して深い意味を持たそうとするデニスの俳句という日本文化への敬意や学びが私には感じられるのだ。

"Haguro san conch shell sounds reverberate in the silence"

山形県の羽黒山を訪れ、杉林の静寂の中で山伏の吹くほら貝の音を聞きながら詠んだ句だろう。

「静寂に 響く羽黒の ほら貝の音(ね)」  

私の勝手な和訳であり、勝手に句に直したものだが・・・

羽黒山のほら貝の音は季語にならないだろうか?

それでも、その情景だけは浮かんで来るようで、いつか日本語でデニスに送り返そう。 

オーストラリアから
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オーストラリアに移住してから25年・・・

仕事も生活も子育ても、私達夫婦は学ぶことばかりだった。

 

この100回目のブログを、私は12月10日に書いている。

今日は母の誕生日だ。

今年の8月に母は鬼籍に入り、母のいない初めての母の誕生日である。

「自分で学んだことは誰にも奪われることはないんだよ」

それは、私が幼い頃の母の口癖だった。