北イングランドのニューカッスル・アポン・タインでの滞在は素晴らしかった。
案内役を買って出てくれた地元のコリン、列車なら2時間半の町シェフィールドからやって来た07年来の親友ケビンが3日間ずっと一緒にだった。
たくさんの思い出を胸に、私は列車でロンドンに向かった。
所要時間は3時間。
そのほとんどの時間、車窓から外を眺めていたが、広大な牧草地とヨークシャー牛や羊の群れが草をはむ牧歌的風景が広がっていた。
街を通過する度に赤い屋根と煉瓦造りの建物やが立ち並び、その光景が歴史を感じさせる。
そして、立ち寄ってみたいと私の心をくすぐるのだ。
日本で生活していた頃、私は "世界の車窓から" という番組が好きだった。
モット・ザ・フープル(MTH)の次のコンサート会場はマンチェスターだった。
昔よく聴いた「マンチェスターとリバプール」という曲のイメージが強く、その舞台となった町を訪れてみたかったが、なぜか私はそのコンサートをパスした。
シドニーとは10時間の時差があり、長時間のフライトで時差ボケもあり、300kmずつ離れた街での3夜連続のコンサートに参加するのは、さすがの私でもちょっと厳しかった。
とにかく、コリントやケビンと一緒のニューカッスルはエキサイティングで呑み過ぎた。
MTHを介した仲間(友人)は20名ほどだが、襟元の赤い服がファンクラブ会長のウイリアム、その裏が私、髪の長いのがケビン、左端のがコリン、屈んでいるのがサイモン・・・
彼らは団体行動をしない。
一緒に動こうとすれば歓迎するが、「俺はこうするよ」と言えば、それに口を出す者はいない。
パブで盛り上がるのも、自分で自分の飲み物を買い、誰もが自分のペースで楽しむ。
それはオーストラリアでも一緒であり、英国系の国民性なのかもしれない。
「折角、遠いオーストラリアからやって来たのだから」
そう言ってコリンが1度だけビールを買ってくれたが、後は全て自由だった。
マンチェスターをパスした理由はもう一つあるのだ。
ロンドン郊外の名門ハイスクール "セント・ポールズ・ハイスクール" が、日本へのラグビー遠征を希望しており、私の主催する「NPO法人日豪スポーツプロジェクト」に日本での滞在中のプランニングやコーディネートの依頼があったのだ。
私はロンドン滞在中にそのハイスクールを訪ねるつもりで、早めにロンドンに向かった。
もちろん、少しは仕事もしなければという気持ちもあるにはあったのだ。
ロンドンでのMTHのコンサート会場からは離れていたが、そのセント・ポールズ・ハイスクールの在る街ハマースミスにホテルを予約していた。
09年のコンサートの時にも宿泊したホテルだった。
ロンドンの中心から20分、セント・ポールズ・ハイスクールの建物の両側には広大な天然芝のラグビー場が広がり、その光景は、まさにイギリスの名門校を思わせた。
英国を代表する名門ハイスクールであり、ラグビーが上流階級の間でアマチュアリズムの象徴として発展した歴史をそのまま感じさせる光景に、しばし見惚れてしまった。
きっとラグビーは必修なのだろう。
幼い児童達がタックルのトレーニングを延々と繰り返していた。
そして、そのスクール周辺には、その光景にピッタリの緑多き閑静な住宅街が広がっていた。
緊張したが、挨拶や打合わせは無事終了し、数ヶ月後の日本での再会を約束した。
MTH最終コンサートの会場はロンドンのO2アリーナだった。
ラグビー・イングランド代表のジャージの胸にO2というスポンサーマークが付いて久しい。
この会場に関係があるのか訊ねてみると、イギリス最大の携帯電話会社だった。
我がワラビーズも一時はボーダフォーンがメインスポンサーだったため、なるほどだった。
イギリス屈指のこんな大きな会場でMTHのコンサート?
「Toshi お前はマンチェスターではどこにいたんだ?」
多くの友人達から訊ねられた。
マンチェスターでのショーの後に、MTHのバンドメンバーも加わり飲む機会があったそうで、彼らはメンバーと一緒に写したスマホの写真を嬉しそうに私に見せた。
残念だったが、自分が決めたことだから仕方が無い。
勝ち誇ったり、それを自慢げに話す者は誰一人いない。
誰もが「お前が居ないのが本当に残念だったよ」と私を気遣ってくれた。
コリンが、ボーカルのイアン・ハンターのサインの入ったギター・ピックをくれたが、長年 "追っかけ" をしている彼らは、仲間や友人に極めて寛容なのた。
私の仲間達はファンクラブの代表ウイリアム・バックスターを中心にイアン・ハンターやMTHのメンバーと強い信頼関係で結ばれているのだ。
MTHのショーが始まる前に、アリーナ内の小さな劇場で、70~74年の全盛期にMTHに帯同したサポートスタッフのインタビューや当時の古いフィルムを交えたミニショーがあった。
このショーの名前が「NOT THE HOOPLE」というのが愉快だったが、MTHや70年代前半のロックの流れ、当時の世相を深く知る意味で、とても有意義だった。
そのショーに参加できたのも、私が仲間の一人として認められている証だった。
黒地に赤文字の2名が元サポート・スタッフ、他は"追っ駆け"の仲間達
MTHは74年に念願の全米公演を実現するが、その時のエピソードは実に興味深かった。
ピストルを持った若者が会場をウロついていたり、マリファナやコカインなどがどこからでも簡単に手に入り、若い女の子たちがどこからか現れ、ずっと一緒に帯同したそうだ。
今も追っかけを続ける50~60代のおばさん達の若い頃だったのかもしれない。
69年のウッドストック、同年、ストーンズの米・オルタモント公演ではステージの目前で黒人の若者が刺殺され、70年代に入りアメリカの状況は更に悪化の一途を辿ったようだ。
ベトナム戦争は73年の米軍撤退、75年のサイゴン陥落で終結するが、70年代前半のアメリカの若者達は、やり場の無い焦燥感や権力への反発心で爆発寸前の状態だった。
そして、その状況はイギリスの若者達にも飛び火し、ロックミュージシャンの多くが、歌詞や演奏で若者達を煽動しようとした。
MTHも若者を煽(あお)るような曲を演奏したが、「バイオレンス(暴力)」という曲を演奏するたびに、ステージはメチャクチャになったそうだ。
イギリス屈指のコンサートホール「ロイヤル・アルバート・ホール」でのMTHコンサート中に起きた喧嘩や暴動は有名で、それを理由にイギリス全土のコンサートホールから会場を貸りるのを拒否されたという逸話も残っている。
実際、73年にはストーンズの初来日が決定し、高2だった私もカタカナと漢字で「ローリング・ストーンズ日本公演」と書かれたチケットを手に入れたが、メンバーの麻薬不法所持の逮捕歴を理由に日本公演は突然中止になった。
若者への影響を危惧した日本政府が来日させなかったと一部報道があったのを記憶している。
そういう時代だった。
ただ、あの時代は、そういう話題が逆にカリスマ性に繋がる時代だった。
今回の再結成コンサートでは、長年の封印を解いて「バイオレンス」が演奏された。
演奏が始まる前にボーカルのイアン・ハンターが、「若い頃に、俺達はこんな曲を演奏したんだぜ!」と一言呟いてから、演奏が開始された。
ロンドンの最終ステージには1万人の観衆が集まり、素晴らしいショーだった。
多くの友人との再会もでき、心から来て良かったと思った。
これで最後かなぁと考えたが、09年のコンサートの時も確かそう考えたはずだった。
スコットランドのグラスゴーや北イングランドのニューカッスルから比べれば、ロンドンなら少しは暖かいはずだと期待していたのだが、寒くて暗くて日照時間が短いのは一緒だった。
ピカデリーサーカスからソーホー近辺は私をワクワクさせるが、今回は工事中の場所が多く、楽しみだったチャイニーズ・レストランはビルの改装のために、店が無くなっていた。
そこから歩ける中華街を目指し、小さな餃子専門店を見つけたが、これが中々の名店だった。
ほとんどの客が水餃子を食べていたが、"フライド・ダンプリング"(焼き餃子)はできるか?と聞くと、できると言うのでオーダーしたが、これが実に美味かった。
それだけでは満足できずに、隣の肉まん屋でニラがガッツリ入ったホカホカの肉まんを頬張ったが、これが癖(くせ)になりそうなほど美味かった。
妻が一緒だったら、こうはいかない。
これが一人旅のいいところだ。