生きる ニック・プーロス | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

ニックとの出逢いは99年だった。

私はその年に "オーストラリアのラグビーコーチ資格/レベル2" に挑戦したが、コーチングコースの初日に、隣に座ったニックから声を掛けられた。

「ジャパニーズ?」

その偶然から、この3日間のコーチングコース中、私は理解できない部分を、ニックに図解やデータ、身振り手振りで丁寧に説明してもらうことが出来た。

 

キャンベラ大学でスポーツ・サイエンスを学んだという彼は、体躯堂々、パーソナルトレーナーとして生計を立てる若者であり、当時はQLD大学大学院で学ぶ学生でもあったのだ。

いわゆる本物のプロコーチであるが、彼はラグビーの高度なコーチ資格を取得することで、自らの将来に新たな道を切り開こうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前年の98年に開始した日本チームのラグビー・オーストラリアキャンプ(遠征)の受入れが、仕事として軌道に乗り掛けていた頃で、私自身が高度なコーチ資格に挑戦することで、私は更に充実したプランニングやコーディネートを可能にしようと目論んでいた。

3日間のセミナー受講、試験や1年間のコーチングレポート提出を経て資格は認定されるが、私はニックにメントー(指南役)になって貰う約束を取り付け、頻繁にコーチングや彼の専門分野であるストレングス&コンディショ二ングについて教えを乞うことになった。

 

日を追うごとに私達は親しくなっていったが、ニックからある招待状を受け取った。

「ファンダ・ライジング・パーティー FOR ニック・プーロス」

そう書かれた招待状には、シドニー・ロックス地区に在るオペラハウスやハーバーブリッジが一望できる高級レストランが会場と記されていた。

 

ニックは「ルケミア」(白血病の一種)という病気で、身体に問題を抱えていたのだ。

その病状を進行させないために、彼は「グリベック」という新薬の投与を続けており、彼自身によってその薬による効果を確実に実証されているということだった。

実際、彼の父親は医師であり、様々なデータを基にその効果は実証されていたのだ。

ところが、その新薬をオーストラリア政府が認可しないために、彼は薬代として毎月$3,000(約30万円)ほどの出費を余儀なくされていた。

 

私が招待されたパーティーの趣旨は、そんなニックを助けるための基金集めだった。

TV局や女性誌などの取材もあり、とても大掛かりなものだったが、日本では経験したことのない趣旨のパーティーに参加したことで、私はオーストラリアの一つの文化を知る機会になったばかりでなく、ある種の感動があった。

ニックや奥さんのサマンサ(マンディー)は私の参加を手放しで喜んでくれた。

 

パーティー参加の会費はもとより、寄付によって集められた数々の物品(例えば、立派な額に入った99年ラグビー・ワールドカップ優勝メンバー全員のサイン入りジャージ、グレッグ・ノーマンのサイン入りゴルフバッグ等)のオークションが行われ、その際に集まった代金がニックの薬代になるというシステムだった。

要領が呑み込めなかったことや各々が余りにも高額で、私は何の協力もできなかった。

 

ニックも私もARU(オーストラリア・ラグビー協会)からレベル2コーチに認定され、ニックは名門イースタン・サバーブズ(私の息子2人はジュニア・チームでプレー)のコーチの仕事を得たが、パーソナルトレーナーと掛け持ちの忙しい日々を送ることになった。

それでも、彼の経済的な困難の現状は変わらなかったようだ。

医者の息子だからと言って、絵に描いたような豊かな生活を送っていないニック夫婦を見れば、子供の自立という点からみたオーストラリアの文化や習慣を垣間見るようだった。

 

ただ、彼のコーチングスキルは本物であり、私はニックに私の仕事を手伝わないかと提案した。

日本からやってくる遠征チームへのコーチング、そしてその頃、私はオーストラリアのコーチを連れて訪日し、コーチング・クリニックやセミナー開催も開始していたのだ。

ニックは学ぶことにひた向きで、類まれなるアイデアを持つコーチだった。

更に、ニックは厳しさを前面に出すコーチであり、オーストラリアでは珍しく、有無を言わせず、選手を限界まで走らせるようなコーチだった。

 

遠征中のコーチングセッションでは、泣き出しそうな選手が続出したが、ニックはミーティングの際に、自分自身の病気との闘いについて選手達に率直に語り掛け、努力を促した。

ニックの厳しいコーチングを記憶に残す日本人選手は今も多いはずだ。


99年のラグビー部オーストラリア遠征が機となり、02年に岐阜県の高校を訪問した。

スポット・コーチングを目的に訪ねたが、監督の希望でニックの特別授業(講演)が実施されることになり、一般の生徒(男女)も含め約200名が会場の体育館に集まった。

 

自身の病気を告知され、20代だったニックは、眠れない日が続き「なぜ僕が?」「なぜ僕なんだ!」と何度も嘆きながら、絶望のどん底に突き落とされた体験をありのまま話した。

今、ここでこうしてみんなに会えることがどれだけ価値有ることなのか一緒に泣いたり笑ったり、また一緒に悩んでくれる友人の居ることがどれだけ貴重なことなのか

彼は自身が体験したままを飾らずに生徒一人一人に語り掛けたが、 "一生懸命生きることの喜びやその価値" を訴えることで講話を締めくくった。

 

ローカルな高校の体育館での講演だったが、それでも、この講演の意義は大きかった。

ニックの講演を依頼した山口監督は長崎で生まれ、幼くして原爆を体験していた。

多くの白血病に苦しむ人々を見て育ち、何を隠そう、監督自身が今、白血病と闘っていた。

 

私との偶然の出会いから知り、実際に体験した日本、多くの日本人と交流し、ニックが日本や日本人を愛するオーストラリア人の一人になっていくのが手に取るように分かった。

そんなニックの新たな夢、新たな挑戦、縁あって、彼は過去に日本一も経験している伝統あるトヨタ自動車ラグビー部のコーチを務めることになった。

彼の卓越した理論やその指導能力、類まれなるアイデアにより、選手達は強靭な身体やフィットネスを体得し、選手の多くが日本代表に選抜され、現在活躍中の選手もいる。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私のパソコンには、彼の緻密なトレーニング計画表が今も残っているが、妥協を許さないプロ意識は、ある意味で 彼の"どん底の体験" が起因しているように思えてならない。

少し心配なのは、彼があまりに矢継ぎ早に自ら望む人生を邁進しているところだ。

トヨタ自動車ラグビー部のコーチを退任してから、ニックはアラブ首長国ラグビー代表の監督を任され、短期間でアジア地区1部リーグに昇格させた。

現在はアデレードでAFL(オージーボール)のコーチとしてその手腕を発揮している。

AFLは、オーストラリアではメルボルンや南オーストラリアを中心に人気のあるメジャースポーツの一つだが、最近は彼の名声や写真が新聞や雑誌で紹介されるようになった。

ニックは、今現在も年に何度かの精密検査を受け続けている。

現在、オーストラリア政府は「グリベック」を認可するようになった。

その認可が下りるまでには、ニックのように諦めずに闘った白血病に苦しむ患者が大勢いたのだ。

彼は積極的にメディアの取材に協力し、当然のように彼の病気と闘う全容が紹介された。

彼や家族の私生活までが女性誌等にアップされ、誹謗中傷で苦しんだこともあったようだ。

 

ストレスを溜めないことがニックには重要なのだが、自分自身の病気と闘い、家族(奥さんと幼い子供2人)を守るため、今も毎日が彼にとって挑戦の日々に違いない。

ただ、ニックはどのような状況下でも投げ出そうとせずに挑戦しようと試みる。

そして、それが誰にも真似ることのできないニックの "生きる" 証(あかし)なのだ。

 

ネットの記事に日本でも「グリベック」が承認されたことが書かれている。

クリスマスには久しぶりでニックに連絡してみよう!