オージー万歳! 旅先での素晴らしい出会い | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

訪日中、仕事のために新潟に向かった。

この新潟滞在中に、私は佐渡に渡り1泊するつもりでいた。

佐渡は初めてで楽しみだったが、台風接近ために帰りのフェリーが欠航になる可能性があった。

長期予報では、佐渡から戻る午前が台風の通過と重なり、フェリー発着所に出向いて確認した。

「欠航かどうかは、直前まで分かりません」

2日後には、この訪日の重要な目的だった熊谷でのアポイントがあり、もし欠航になれば、その会合に出れなくなってしまう可能性があり、私は佐渡に渡るのを断念した。

 

その晩、私は新潟駅前の居酒屋で一人寂しく新潟の銘酒"菊水"を楽しんだ。

新潟県新発田市の "菊水酒造" は、大西鉄之祐先生の奥様"アヤさん"の実家と聞いていた。

大西先生が亡くなられた後も、アヤさんはことあるごとに私に目を掛けてくださった。

03年にシドニーで開催されたラグビー・ワールドカップの際には、私も含め、日本から大挙してワールドカップ観戦に訪れた男性軍の "永遠の恋人" のような存在だった。
オーストラリアから
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新潟駅前の居酒屋での一人酒・・・

”一人酒場で飲む酒” もたまにはいいが、結局、隣に居合わせた愛媛から来たと言う技術者2人と意気投合し、長時間、共に新潟の酒と会話を楽しんだ。

私の義姉が愛媛の出身だったことや、かつて私はオーストラリアのジュニアチームを連れて愛媛を訪れた話題が肴となり、菊水の冷酒ミニボトルがどんどん空になった。


翌朝は私の予想に反して体調は完璧だった。

台風はまだ山陰付近をゆっくり西に向かっている状況で、佐渡を断念した分の時間を持て余し、私は新潟に留まるか、打ち合わせ場所である熊谷近くまで行ってしまおうか迷っていた。

 

話は飛ぶが、かつて私はラグビーのコーチングで全国を巡回したことがあり、まだ足を踏み入れていない県は山形県と徳島県の2県だけだった。徳島県は高知を訪ねた時に列車で通過したことがあるが、山形県だけは、通過したことさえ無かった。

 

「そうだ 山形に行こう
JRのCMではないが、私は "特急いなほ" に飛び乗り、酒田に向かった。

"初めての山形" という以外にこれという目的は無かったが、酒田は確か "おしん" に関わりのある街だという記憶だけはあった。

最上川河口付近に米の積出港があり、おしんはその近くの米問屋に奉公に出たはずだ。

"おしんが映画化された" と最近何かで読んだ。

そして、酒田駅のプラットホームにはそのポスターがあちこちに貼られていた。

 

アイドルが母親役に起用されているようで、綺麗に口紅が塗られ、眉を剃り、髪も整えた姿で、汚れていないパッチワークのような綿入れを着て、しょいかごをかついている。

おしんの母親のイメージには程遠かった。

やっぱり、おしんの母親は、陽に焼け、薄汚れたボロを着た泉ピン子でなければならないのだ。

一気に観る気が失せた。

観もせずに映画を批評するつもりはないが、あの時代のこの地域の小作農の状況を考えれば、監督はどうして役者にそのような役作りをさせないのだろう?


そう考えている内に、私は酒田では降りる気になれず、羽越本線に乗り換え新庄に向かった。

列車は余目駅で停車、その駅名を "よめ"と読むのかと思ったが、"あまるめ"と読むそうだ。

その駅から一人の外国人が乗車し、私の裏の座席に座った。

大きな荷物に、手に持った傘が邪魔だったようで、「シット(くそ)」とかブツブツ言いながら座ろうとしているが、何か上手く座れないでいるようだった。

その英語の発音や雰囲気が、私にはとても身近に感じられた。

車窓左手に最上川の美しい流れが見え、私が期待していた山形らしい田舎の景色が続く。

私はその景色に見とれながら、やっぱり来て良かったなぁと思うばかりだった。

 

「スミマセン、あれはモガミリバーですか?」

突然、彼が私に大声で質問した。

私は「イエス」と返したが、彼は「サンキュー」と私に礼を述べると、深く頷(うなづ)きながら、"五月雨を集めて早し最上川" と芭蕉の句を詠んだ。

咄嗟で驚いたが、私は彼がオージーに間違いないと思った。

 

私は彼に聞いた。

"Where are you from mate?"

彼は「オウ」と驚くような顔をして、私が予想した通り返して来た。

"I'm from Australia mate"

出身はブリスベン、現在はキャンベラに住んでおり、仕事を引退してから日本を4回訪れ、今回の訪日は7週間の長い旅なんだと一気に話した。

早口のオージー訛りが何とも心地良く、私もシドニーに住んでいると話すと、それからは止めどなく日本とオーストラリアの話題や私がオーストラリアに渡った経緯など話に花が咲いた。

最終的には、キャンベラが本拠地のスーパーラグビー  "ブランビーズ" の話題と今シーズン不調なワラビーズの話題で盛り上がった。

 

車内販売のビールを1本ずつ呑み、あっと言う間に新庄に到着、そこから新幹線で山形に向かうと言うので、私も彼に付き合って同じルートで一緒に山形に向かった。

山形駅に到着すると、「僕のホテルは狭いんだよ!、オーストラリアでまた会おう!」と言葉を残し、駅前で握手をしてことのほかあっさり別れた。

それがまた、実にオージーらしかった。

彼の名はデニス、名刺には"Agricultural Scientist"(農業科学者)と書かれていた。

 

翌日、私は「山寺」に向かった。

かねてから一度行ってみたかった山寺は、山形を代表する景勝地である。

天台宗の寺で、860年に開山されたと言う。

JR山寺駅に降り立った瞬間、「あ、 あの景色だ」 と誰もが思うことだろう。
オーストラリアから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

"閑けさや 岩にしみ入る 蝉の声" 

この芭蕉の句は、奥の細道を代表する句である。

山門から800段を超える石段を登り、奥ノ院までたどり着いた時の感動は筆舌に尽くしがたく、五大堂の舞台から眺めた景色は、まさに山寺随一の展望だった。

そして、そこに吹く風がとても気持ち良かった。

 

私が奥ノ院を後にして、石段を下り始めた時だった、

汗をびっしょりかいて、初老の外国人がトボトボと石段を上ってきた。

私に気付いて、急に笑顔になった。

「あ~ How are you ? mate デニス」 あの "学者のデニス" だった。

山形駅までの新幹線の中で、私は彼に山寺の話をしたのだ。

芭蕉の最上川を詠んだ句と同様に、彼は山寺の句も何も見ずにスラスラと詠み、私を驚かせた。

彼は、やっぱりここにやって来たのだ。
オーストラリアから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

旅は本当に素晴らしい。

そして、そこに出逢いがあれば尚更だ。

このブログをアップする頃、きっとデニスはオーストラリアに戻る頃だろう。

山形路を旅した後、彼は "馬篭宿" から北陸を抜けて、山陰に向かうと言っていた。

日本をこよなく愛するオーストラリア人、その旅の行き先が何とも "渋い" のだ。

いつかデニスとオーストラリアで会うのが楽しみになった。

 

これで私は山形県を制覇した。

まだ降り立っていないのは徳島県だけになった。