ぼくの叔父さん | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

映画「男はつらいよ」は私の人生に様々な影響を与えた。

主人公 "フーテンの寅" を演じた渥美 清さんは、晩年病魔と闘っていたようだ。

作品の内容にもその影響は表れ、晩年は甥の "満男"(吉岡秀隆)と初恋相手の "泉ちゃん"(後藤久美子)を中心に展開するストーリーが多かった。

 

その流れの第一弾となった作品が、「ぼくの伯父さん」だった。

大学受験に失敗した満男、親の離婚のために佐賀に住む叔母のもとに身を寄せる泉ちゃんの甘酸っぱいストーリーだったが、公開された89年頃の時代背景が至るところに登場する秀作だ。

 

特に印象に残ったシーンがあった。

泉ちゃんの義理の叔父で高校教師役の尾藤イサオの冷たい口調、その前でまともに言い返せない寅さんのもどかしさ、そのやり取りは実にシリアスと言うかリアルで、寅さんに近い生業(なりわい)の私は悲しい気持ちにさせられた。

寅さんが喧嘩をしたり言い争うシーンはいつもコミカルで笑えるのだ。

シリーズの中で、あのシーンだけは、私自身が責められているような気持ちになった。

"半沢直樹" の父親役 "鶴瓶" は、幼い直樹に「ロボットのような仕事はするなよ」と言い残しこの世を去るが、尾藤イサオはまさしくロボットのような高校教師を上手に演じていた。

 

本当は、私の叔父について描こうと思って書きだしたのだ。

寅さんはさくらの兄なので"伯父"、私の方は母の弟なので"叔父"と書く。

私の叔父は、昭和39年(1964年)東京オリンピックの聖火ランナーだった。
オーストラリアから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和39年、東京オリンピックの聖火リレーはコースを4コースに別けて出発した。

9月9日に出発、鹿児島(日本海側/山陰道経由)、宮崎(四国/山陽道/東海道経由)、北海道(日本海側経由)、北海道(太平洋側経由)の4コースである。

出発後、全都道府県を通過し、10月10日の開会式に向け東京までリレーされた。

 

沖縄は、まだ返還前だった。

栃木県は9月30日から10月2日にリレーされ、叔父は宇都宮駅から県庁までの最終ランナーを務め、県庁に設置された特設聖火台に点火する大役を任された。

当時の写真を見ても分かるが、沿道には大観衆が押し寄せ興奮のるつぼと化す中、小学3年生だった私は、母に連れられて宇都宮の大通り二荒山神社前で叔父の勇姿を目の当たりにした。

2020年東京オリンピック開催が決定し、先日地方紙に叔父を紹介する記事が掲載された。

高校生の頃から、叔父はサッカー選手としてオリンピックを目指していた。

現日本サッカー後援会理事長 松本郁夫氏(メキシコ五輪銅メダリスト)の高校の後輩であり、高校時代はキャプテンを務め、国体にも出場した。現在、68歳になるが、サッカー無くして人生無しと豪語し、今も現役シニアとしてプレーしている。

 

叔父には叶わなかった夢がある。

オリンピック出場はその一つだったが、敬愛する松本先輩の後輩として早稲田大学サッカー部でプレーすることだった。

当時、早稲田大学サッカー部には釜本邦茂氏をはじめ日本サッカー界を代表する選手が多数在籍し、叔父が受験する前年1963年には日立(現柏レイソル)を破り、天皇杯を獲得した。

 

そんな世相も相まって、サッカー日本代表への登竜門と言われた早稲田大学サッカー部は日本中の高校生の憧れの的だったに違いない。

受験に失敗した叔父は、あっさり栃木県庁に就職、定年まで勤め上げた。

叔父は多くを語らないが、"早稲田大学サッカー部でプレーするのが叔父の夢だった" という話を、私は実姉の母から聞いた。

 

母とは16歳も離れた姉弟だが、戦後の混乱を生き抜いてきた絆は深く、20年前に父が他界してから、叔父はずっと母を支えてくれた。

私にとって、叔父はスポーツの素晴らしさを知る10歳年上の兄のような存在である。

私の学生時代、叔父は早慶戦や早明戦の応援に東京まで駆け付けてくれた。

その度に、私はご馳走になったり、時には小遣いも貰った。

サッカーとラグビーの違いはあれ、叔父は叶わなかった夢を私に託していたのかもしれない。
オーストラリアから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8月に母が他界し、叔父は姉への惜別の思いを込め、母の墓前で "千の風になって" を唄った。

今思えば、叔父は悲しみを打ち消すため、亡き姉のために声を張上げて唄ったのだろう。

 

母には3人の弟がいるが、3人共サッカープレーヤーだった。

長男である叔父は東京教育大学でプレーし、卒業後はサッカーの盛んな広島県で高校教師となり、サッカーの指導にも熱心で、退職後は広島県サッカー協会の要職にも就いていたようだ。

私はかつて "横浜フリューゲルス" のオーストラリア遠征の世話を任されたことがあり、加茂監督から「野中さんの甥っ子なのかぁ」と親しみを込めて言われ、驚いたことがあった。

 

次男の叔父は宇都宮大学サッカー部でプレーし、なぜか大阪府庁に勤務、長年ジュニアサッカーの指導を続け、何度も少年達をドイツに連れて行ったようだ。

私はサッカーが盛んになりつつあるオーストラリア遠征を勧めるが、やはりサッカーの遠征先はドイツかイギリス、南米に限られるようだ。

 

そして、3男の叔父は母達が育った宇都宮の実家を守りながら、サッカーとゴルフに身も心も捧げたような生活を送っている。

地方のアマチュアゴルフ大会で優勝し、"シドニーの超高級ホテルに宿泊、超名門コースでプレー" という副賞を獲得し、私は思いがけぬシドニーでの再会を果たした。

 

3人3様に活動的で、私には誇り高き "ぼくの叔父さん" なのだ。 

*左から、長男、次男、三男
オーストラリアから 

映画「男はつらいよ」で、満男が「伯父さんはいいなぁ」としみじみ言うシーンがある。

大学に合格し、満男がノンポリ学生生活を送っていた頃の朝の一シーンだ。

母親のさくらが、「どうして ! ? 」 と怪訝そうな顔で聞き返す。

「だって、伯父さんは社会を否定して自由に生きてるだろう」 

満男の言葉に、母親のさくらが真面目な顔をして怒り、満男に言い聞かせようとする。

「伯父さんは社会を否定したんじゃなくて、社会から否定されたのよ!」

 

久し振りで柴又に戻った寅さんがとら屋で大暴れ、妹のさくらに悲しい思いをさせ、柴又を後にするシーン、柴又駅まで送った満男が伯父の寅さんに向かって言う。

「伯父さん、反省しろよ

成長した満男が伯父さんを慕いながらも、母親さくらの弟寅さんへの心配を代弁する。

 

共に私の好きなシーンだ。

私は兄が一人だけであり、甥も一人だけである。

ラグビーをプレーした甥は滋賀県大津市に住んでいるため、中々会う機会に恵まれない。

 

病床の母を毎日のように見舞ってくれた叔父、母の通夜も葬儀も、何もかも取り仕切ってくれた叔父、49日にも顔を出してくれた。

きっと、これからも何かと母に代わって私の実家を助けてくれるに違いない。 

そんな叔父に、いつか私は、母への分も含め "倍返し" で恩返ししなければならない。