私の小さな旅 | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

訪日中はホテルに宿泊することは多いが、テレビをつけることは滅多にない。

卒業35周年の早大ラグビー部同期会の日、なぜかその朝はテレビをつけた。

"若大将のゆうゆう散歩" という番組が放映されていたが、加山雄三のちょい旅をレポートする番組のようで、その旅先がたまたま西東京市(旧保谷市)東伏見だった。

同期会の朝に相応しく、私たち同期が学生時代に生活した街だ。

 

番組の冒頭、よく通った「妙法の湯」(銭湯)が紹介された。

今年9月で閉鎖されたというテロップが流れたが、それを知ってちょっと寂しかった。

東伏見のラグビー場も上井草に移転したが、思い出の場所がまた一つ消えていた。

 

ラグビー部の寮と銭湯の往復には、道に沿って「武蔵関公園」が広がっている。

その旅ではその公園も紹介されたが、武蔵野の面影を残す公園で、落葉樹が多く、季節毎にその表情を変える素晴らしい公園なのだ。

 

関公園は寮から歩いてたった1分の距離なのに、学生の頃にはその価値が分からなかった。

毎朝、「起床」の合図で全員が公園に向かい、体操と簡単なパスなどを行うのが日課だったが、下級生の頃は、毎朝上級生の顔色が気になった。

番組では、「ひょうたん池」が紹介され、加山さんは池の周りをスケッチしていたが・・・ 

時として機嫌の悪い上級生が池の中にボールを蹴り込み、拾うのに往生した朝を思い出した。

ふざけて蹴り込む訳ではなく、ボールが汚いとか空気圧が足りないとか、理由は様々だった。

今なら馬鹿馬鹿しいと笑えるが、下級生の頃は毎朝緊張したものだ。
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東伏見という名前の由来となる東伏見稲荷神社。

番組では、昭和4年に京都の伏見稲荷神社が分霊を勧請し創建されたと説明があった。

*勧請/かんじょうと読み、神仏の分霊を頼み迎えること

シーズンが始まると、公式戦の朝は必ず全員で東伏見稲荷を参拝し、必勝を祈願した。

番組で映った「東伏見稲荷」は、私の記憶とは異なり、修復され生まれ変わった神社のように見えたが、30年以上経つ訳で、それも当然かもしれない。

早大ラグビー部の卒業生なら、この東伏見稲荷神社への思い入れは強く、私は結婚前に妻をこの神社に連れて行ったが、その日は妻の成人式の日だった。

東伏見稲荷神社で永遠の愛を誓い合ってから、もう30年になる。

この番組、以前は地井武男の "ちい散歩" という名で放送され、隠れた人気番組だった。

地井さんが体調を崩し、回復するまでの約束で加山さんが代打に起用されたそうだが、その後地井さんが他界、加山さんがそのまま受け継いだようだ。

 

築地で偶然 "ちい散歩" の撮影に遭遇し、私は思わず「頑張って下さい」と声を掛けた。

ドラマ "北の国から" の五郎さんの良き理解者 "中畑和夫" 役だったことから私は彼が好きになったが、地井さんが私に返した人懐こい笑顔はドラマのままだった。

"散歩" という名の通り、小さな旅のレポートだったが、肩肘張らない内容が中々面白かった。


"たった一枚の絵を見に行く旅に出る理由は簡単でいいと思います"

世界的な画家 "藤田嗣治" が秋田で描いた門外不出の絵画を前に、吉永小百合がそう語るJR東日本のCMのキャッチコピーである。

"そうだ、京都 行こう" も良いが、 JRのCMにはいつも心をそそられる。


今回の訪日中に1泊だけ旅気分を味わう機会に恵まれた。

たとえタイトな日程が続いても、そのような小さな旅が私の "元気の素" となる。

旅の理由は極めて簡単、行きたいから行くのだ。

時には理由など無く、誰にも知らせずに私はどこかに消えてしまうこともある。

今回の行き先は大分県の湯平(ゆのひら)温泉だった。
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98年、ラグビーのコーチングのため大分の久住高原を訪れた。

その時、何の情報も無く、私一人で湯平温泉に一泊したが、いつか九州を訪れるチャンスがあれば再度訪ねてみたいと思ったほどの情緒溢れる温泉なのだ。

 

花合野(かごの)川沿いに石畳の坂が300m続き、その左右に温泉旅館が並んでいる。

"隠れ里"のようなこの温泉の歴史は鎌倉時代に遡(さかのぼ)るそうだ。

由布院温泉よりも古いそうで、明治時代からの写真が現存し、大正時代には湯平駅に外国車(ハイヤー)が並ぶほど賑(にぎ)わったそうで、日本中から客が押し寄せたという。
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私が訪れた15年前にも旅館が60軒あったそうだが、今では20軒しか無いそうだ。

そして、湯平駅は無人駅になってしまい、聞こえるのは川のせせらぎと野鳥の囀(さえず)りだけで、人工的な音は何も聞こえて来ない。

それはそれで価値あることなのだが・・・

 

古くからの老舗旅館「志美津」の清水社長(私と同世代)と話す機会があった。
「以前は湯平にラグビー場があり、夏合宿には大勢のラグビー選手がこの湯平を訪れたものですが、
今ではそのラグビー場が草ぼうぼうの荒れ地になってしまいました」 

清水社長は寂しそうだった。

 

かつては別府と並んで多くの湯治客が押し寄せた湯平、この狭いエリアに遊郭や劇場、パチンコ屋、映画館も2軒あったそうだ。

それが今では、石畳の坂の途中には閉じたままのホテルや旅館がそのままになっており、一般の温泉場でよく見掛けるような遊興施設はもちろん、飲み屋やカフェもほとんど見当たらない。

私にはその方が良いが、高齢化も進み、地元の人達にとっては存亡の危機のようだ。

 

「湯平の栄光の時代を復活させるのが私の使命」と清水社長は豪語する。

清水社長を座長に「湯平温泉場活力創造会議」が発足しているそうで、地域活性化の催しや様々な活動が開始されているという。

良質な温泉(それぞれの宿坊の温泉も素晴らしいが、外湯も5つあり、安価で楽しめる)、心安らぐ自然環境、新鮮な山海の幸・・・ 

付焼刃の遊興施設やイベントで客を呼ぶような方策だけは避けて欲しいが、清水社長の人柄からすればそれはあり得ないだろう。

本物志向の客を中心に必ず復活は叶うはずだ。
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たった1泊だったが、私はコーチングの疲れを癒し、身も心もくつろいだ気持ちになれた。

旅館「志美津」での夕食の時間に、シンガポールから訪れたと言う家族(夫婦と娘二人/父親のデビッドは私と同世代)と談笑する機会に恵まれた。

 

先日、シンガポールのデビッドからメールが届き、「家族で訪れた日本でのホリデー最後の晩でしたが、温泉や自然の素晴らしさ、ホスピタリティ(接客)の素晴らしさは最高でした」と書かれ、「貴方に会えて、楽しい会話ができました、本当にありがとう」と締め括られていた。

 

近年、ニセコや白馬に多くのオーストラリア人が足を運ぶようになった。

雪質の素晴らしさや温泉がその呼び水と言われているが、やはり "本物志向" がオーストラリア人の心を魅了するのだろう、オージーは意外に目が高いのだ。

スポーツ好きのオージー、オーストラリアでは、山間を走る100kmマラソンやマウンテンバイクの大会が盛んに行われているが、湯平はそんなスポーツに "もってこいの地" である。

朝食後に、列車の出発ギリギリまで、清水社長とそんな話で盛り上がった。

 

温泉街の石畳を少し登れば、棚田が広がっている。

"日本の棚田百選" にも選ばれている日本独特の美しい田園風景である。

フランスの田園風景の中を走り抜ける ”ツール・ド・フランス” をよくTVで観るが、私はこの湯平の風景を走り抜けるランナーやサイクリストを想像してみた。

今回の小さな旅、私には "ツール・ド・YUNOHIRA" という夢ができた。