私がサラリーマンだった頃 | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

1988年、私は日本を飛び出し、オーストラリアに移住してしまった。

その頃、日本ではバブルが膨らんでいた。

会社の景気はうなぎ上り、そんな状況下での突然の退社に、何か失敗でもやらかしたんじゃないか !? 悪いことでもしたじゃない !? 誰もがそう考えたに違いない。

 

実際、上司に退社を申し出た際に、真剣に詰め寄られた。

「加藤、本当のことを言ってくれよ

前日まで普通に働き、3歳と10ヶ月になる子供2人を抱えていることも知っている私の上司は、突然の「退社届」を前に、そう言いたくなるのは当然だった。

 

仕事や会社でのトラブルは一切無かったため、私には何も隠すことは無かった。

トラブルがあって会社を去れば、私の入社から8年間続いた早大ラグビー部の後輩達に迷惑を掛けることになるし、私の性格からすれば、それはあり得なかった。
オーストラリアから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の勤めた会社は家庭品を扱う大手メーカーで、私は卸店(問屋)の担当だった。

東京第一販促部、会社の中枢を担う部署であり、営業ならここで働くのが私の夢だった。

私の月のノルマは約3億円、それを1本100円前後の歯磨きや歯ブラシ、シャンプーなどで積み上げていく訳で、厳しかったが、心構え次第で十分遣り甲斐を感じられる部署だった。

 

配属当時、私は最年少であり、バリバリの精鋭揃いで気の抜けない部署だったが、任された職務やその責任を私は決して嫌いではなかったし、進んで挑戦してやろうと考えていた。

バブルの頃、黙っていても商品は動いた。 

"会議は踊る"ではないが、会議好きの上司やベテラン社員達は、人よりも文字や数字の書かれた紙ッペラを信じる傾向が強く、配属当初、私はその会議で何度もやり込められた。

当初は呆気にとられたが、慣れれば、大した問題ではなかった。

 

幸い、私は得意先に恵まれた、と敢えて言おう。

と言うのも、ベテラン先輩諸氏が "担当したくない得意先" と刻印を押した筆頭格、怖いもの知らずの私は自ら志願してその卸店の担当になった。

一般に卸店は私の会社の製品だけでなく、様々なメーカーの製品も取り扱っている。

したがって、卸店はメーカー同士の戦場なのだ。

代々の先輩諸氏が担当になりたくなかった理由は、仕入れ担当役員の本部長にあった。

9人兄弟の7番目で、会長は母親、長男が社長、次男が専務、3男は葛飾区会議員・・・

 

この7男の本部長は、ちょっと一筋縄ではどうにもならない頑固者だった。

東京葛飾と言えば ”フーテンの寅さん” を思い浮かべるが、本部長の頑固な性格とその裏に隠れた人情味は寅さんそのものだった。

顔つきも寅さんの四角い顔を丸くしたような感じだったが、威圧感はあった。

この人の前では小細工など通用するはずもなく、口先八丁に調子よく入り込もうとして出入り禁止となり、商談もさせてもらえないメーカーの担当がたくさんいた。

寅さんと言えば江戸川だが、それは柴又で、この卸店は立石にあり、中川沿いにあった。

倉庫は狭く、他メーカーと限られた倉庫スペースの陣取り合戦になる。

「加藤、大切なのはマーケティングだ!」「販売戦略だ!」・・・

そう言って、百戦錬磨の先輩方は冷房の効いた会社の事務所でせっせと資料作りに精を出す。

売るための企画を卸店セールスに提案し、売る気にさせることは確かに重要である。

ただ、私に言わせれば、土地柄や下町の卸店の社員には叩き上げが多く、メーカー本位の企画を上から目線で説明するよりも、「よし、お前のために売ってやるよ!」という人間関係を構築する方が重要だった。

 

私はコミュニケーションを最も大切にした。

毎朝4時に起床、5時には卸店の倉庫に居た。

毎朝5時に私の会社の製品を積んだ大型トレーラーが到着し、倉庫担当が荷受けをするが、私は運動着姿でそれを手伝った。

当時の私のポリシーは、"一番キツイ仕事をしている人" をサポートすることだった。

倉庫には暖房も冷房も無く、倉庫で働く従業員は毎日毎日重い荷物をかつぐのが仕事だった。

2時間ほど手伝い、パレットに綺麗に積み上げると必ず空いたスペースができる。

それがチャンスだった。

その空いたスペースには必ず私の会社の製品を補充してもらうための努力を重ねた。

 

一仕事終え、倉庫担当(ベテランの年配者が多い)がみそ汁とおにぎりをくれる。

これが、"えも言えぬ" ほど美味いのだ。

時には、「かあちゃんが漬けたんだ」という漬物が加わる。

正にその場が、寅さんの帝釈天の門前商店街の雰囲気に変わる。

私は倉庫で着替え、何食わぬ顔で卸店のセールス達との打合せのため事務所に向かう。

何も言わないが、彼らは私が倉庫でひと汗かいてきたことを知っているのだ。

半期毎の締め月や年末年始、私の会社の幹部が各卸店を訪問する。

そんな時には、決まって担当セールスのことが話題になることが定番なのだ。

東京本店全体会議の冒頭に、部長から突然こんな話があった。

「当社は家庭品を扱うメーカーであり、人の心に訴えるには泥臭い仕事を心掛けなければならない。そのためには汗を惜しまぬ地道な姿勢が必要である」 

その後に、部長が卸店の社長から聞いたという話に私の名前が名指しで登場した。 

 

朝が早いため、倉庫のおじさん以外に会うことは無かった。

ところが、卸店の社長以下、誰もが知るところとなっていたのだ。

空いたパレットに、少しでも多くの我社の製品を納入できればという下心があってやった私の独自の販売戦略であり、それが単にルーチンになっていただけなのだ。

 

ベテランの諸先輩方に部長の言葉は面白くなかったようだ。

「加藤はラグビーしかやって来なかったし、頭より身体を使うことが得意なんだろう

面と向かって言われることは無かったが、私が参加しない(誘われない)飲み会の席などで恰好のネタ(笑い話)になっているようだった。

百戦錬磨の諸先輩方からすれば、私の仕事ぶりは危なっかしく見えたのだろう。

「メーカー社員としてプライドを持てよ!」

そう言う先輩もいるにはいたが、プライドなんてクソ食らえだった。

 

私は月額3億円のノルマを一度たりとも落としたことがなかった。

「加藤、今月はあと幾ら足りないんだ?」 

毎月20日を過ぎた頃に、いつも決まって本部長に呼ばれ、夜遅くまでセールス達と私のノルマ達成のため集中対策会議を開いてくれたのだ。

その会議は私にとって自分の会社の会議より重要だった。

 

本部長が大病をしたことがある。

救急車で運ばれ面会謝絶の中で、私だけが集中治療室に呼ばれ、退院には私が付き添った。

私が退社の報告をした際、「お前が決めたのなら、俺は応援する」と言い、自分の財布から10万円を出し、「これは俺からの餞別だお前は俺の会社の社員と同じだ」と言った。

私は、本部長の前で本気で泣いた。

 

「あの会社は本部長で持っている!」と言われるほど、存在感のある人だった。

バブル崩壊後、業界再編の動きがあり、人情を表に出した商売は影を潜め、本部長も引退されたようで、会社も大手薬局チェーンの配送部門として吸収合併になったと聞いている。

 

私がシドニーに渡ってから、相次いで本部長の息子や娘が留学のためにシドニーを訪れた。

娘の "奈々ちゃん" は、医師に嫁ぎ2児の母親になったと聞いた。

私にとって、彼女の留学は私自身の娘を世話すような気持だった。

それは、ささやかな本部長への恩返しだった。

担当したての頃、「お前は出入り禁止だ」と何度本部長から怒鳴られたか分からない。

渋滞で商談に1分遅れ、「もう、お前はうちの担当じゃない、帰れぇ」と言われたのが、つい先日のことのように思えてならないのだ。

そう言い放っておいて、どう対処するかを見ている人だった。

私はそういう状況から絶対に逃げなかった。

本部長はそのような若いセールスをとことん大切にする人だった。

今でさえ、私の仕事の基本は、この本部長に教えてもらったものばかりである。

良い時代だった。人情が商売に通じる時代だった。

そうだ本部長に電話してみよう。