8月9日、シドニーから1000km北のブリスベンに向けて車で出発。
翌10日、慶大ラグビー部(50名)が、強化キャンプのためにブリスベン空港に到着する。
ラグビーキャンプのコーディネートを任された場合、必要な用具類の運搬のために、私はいつも使い勝手の良い自分の車に荷物を満載してキャンプ地に向かう。
到着前日は、決まってシドニーから北へ約900kmのトゥイーズヘッドのモーテルに宿泊する。
一人で一気に運転した疲れと、その疲れが翌日からのスケジュールに影響しないよう、旅心など感じる余裕も無く到着と同時にシャワーを浴び、ベッドに倒れ込む。
ドライブは順調で今回も今までの遠征と同じ流れだったが、妻からの突然の電話で目が覚めた。
「お兄さんから連絡があったけど、お母さんが危篤状態で、直ぐに帰って来れないかって」
私の長距離運転の疲れを気遣いながらも、妻は母の差し迫った状況を私に伝えようとした。
私は直ぐに日本の兄に電話を掛けた。
母のここ数日の様子や医師の説明などを兄から詳しく聞いた。
覚悟はしていたが、私は母の状態がいかに余談を許さない状況なのかを理解した。
しかし、正に明日、日本から遠征に訪れるスタッフや選手達の到着を目前にして、完璧に準備を済ませてはいたが、私が到着や遠征中の場に居ない訳にはいかなかった。
実際、オーストラリア側のマネージメントのほぼ100%を私が担っているために、その時点で、私は母の臨終に間に合わないことを決断せざるを得なかった。
私は兄に今の状況を説明し、「帰れない」とキッパリ伝えた。
今年5月の訪日後に、私は母の病床を見舞った時のことをブログに残している。
http://ameblo.jp/jpozspirit/entry-11530175370.html
次は半年後に戻ると言った私に、「歩けるようになって待ってるからね」と言って笑った母の笑顔を思い出すと悲しくて悲しくて仕方が無かった。
実際、目の前の母を見れば、別れ際の言葉を鵜呑みに出来る状態ではなかったのだ。
3歳で実母を亡くし、後妻に育てられ、12歳の時に太平洋戦争勃発、東京大空襲で東京から宇都宮に疎開、戦後の混乱に青春の全てを奪われ、結婚後は兄や私を育てながら、高度経済成長の歯車として身を粉にして働いた母は、決して弱音を吐いたことが無かった。
20年前に夫(私の父)を亡くし、その後は父が守った畑を耕し、野菜作りに精を出した。
近所の直売所に出荷するほどだったが、手術の影響で歩けなくなってからも、私が里帰りをすれば、いつも畑や庭先に低い椅子を持ち込んで草むしりをしていた。
整然と耕された雑草一つ生えていない畑は母の自慢であり生き甲斐だった。
18日に慶大ラグビー部の強化キャンプが終了した。
キャンプ中は、チームと共に私自身もモチベーションを維持しなければならず、日本との連絡は妻に任せていたが、幸いにも母は小康状態を保ち、私は仕事に没頭することが出来た。
それでも、電話が鳴る度に悪い知らせを覚悟しなければならなかった。
空港でスタッフ・選手達を前に挨拶をし、その時に初めて母の状態について皆に伝えたが、スタッフや選手一人一人の目に驚きと私を思い遣る心が感じられた。
私はキャンプの達成感やシーズンに向けた期待を胸に、彼らをブリスベン空港から送り出した。
私の仕事はスタッフや選手達を送り出せばそれで終了では無い。
この仕事を継続していくためには、後片付けや事後処理は準備以上に大切なのだ。
その中にはシドニーまで車で1000kmを運転して戻る作業も含まれている訳で、焦れば取り返しのつかないことにもなり兼ねなかったのだ。
日本のお盆休みの影響で、日本へのフライトはキャンセル待ちの状況であり、親しくしている旅行代理店を通じて、21日シドニー発の航空券を確保した。
もちろん、フライトは満席の状態だった。
そんな状態でシドニーを出発、翌22日の朝、成田空港到着。
空港ー宇都宮間を結ぶバス "マロニエ号" に飛び乗り、実家のある宇都宮へと向かった。
義姉が私を駅で拾い、そのまま入院先の白澤病院という総合病院に向かった。
病室に入ると、母は酸素マスクを装着されて眠っていた。
短い呼吸が何とも苦しそうだったが、点滴のためか?薬の影響か?顔や手足はパンパンに腫れ、皺(しわ)一つ無い顔が、私には病状に反して元気そうに見えた。
しばらくすると、主治医が病室を現れ、血圧が低下していること、また排尿が少ないことなどから、極めて危険な状態にあると説明したが、その説明を終えると、これ以上は手の施しようが無く、見守るしかないと付け加えた。
大きな声で母を呼んでみたが、目を開いたり、声を出すような反応は無かった。
昼前に到着し、病室で母と2人だけの時間を過ごすことが出来たが、母の耳元で、私は昔の思い出やシドニーで心配している息子達の近況、大成功だった今回の仕事について話し続けた。
何の反応も無かったが、母の顔は穏やかに笑っているようにも見えた。
夕方になると、三々五々、叔父(母の弟)、義姉、兄の順で病室を集まって来た。
8月22日 午後5時50分、母は静かに息を引き取った。
母は、最期にほんの一瞬だけ目を開けた。
通夜、告別式、火葬、納骨、母が望んでいた通り、通夜や葬儀は小さな"家族葬"で送り出した。
大がかりな手術をしてから1年9ヶ月、昨年の春に見舞った時に、医師からは来年の桜はきっと観れないだろうと言われていたが、夏真っ盛りまで母は頑張ったのだ。
享年84歳。母は強い "昭和一桁" の女性だった。
既に天国で父と出逢って、笑顔で私達の話をしていることだろう。
これから先も、2人はきっと私の心の中で生き続けるはずだ。
集まってくれた母を愛した人達を前に、兄がこんな挨拶をした。
数年前に私は高校の同級生だった50代の親友を孤独死で亡くしました。
30歳そこそこの彼の息子が父の最期に際し挨拶をしましたが、彼は父親の仲間や知人を前にして、10分間何も喋れずに立ちすくんでいました。彼の気持ちが今の私にはよく分かります。
母が愛した実家の庭先、この季節はアサガオやグラジオラス、ヒマワリなどの夏の花が咲き乱れていた庭先が、今回の訪問時には見るも無残に雑草に覆われていた。
母の入院で、兄夫婦も仕事や母の看病に追われ、そこまで手が回らなかったに違いない。
初七日を終えて、私はシドニーから母の葬儀に駆け付けた妻と共に宇都宮を離れた。
兄夫婦、そして、事あるごとに母を励ましてくれた叔父、母の訃報を知り、駆け付けてくれた親族や友人知人・・・
母を愛してくれたすべての方々に、この場を借りて感謝の言葉を申し上げたい。
本当にありがとうございました。
幼い頃から中学生ぐらいまでお母ちゃんと呼んでいたが、高校生の頃、そう呼ぶのが照れくさくて、「おっかさん」と呼ぶようになり、孫が誕生し、「ばーちゃん」に変わったが・・・
私には「おっかさん」が一番しっくりくる。
おっかさん
ありがとう、あなたは最高の母でした。
あなたの息子に生まれて、私は本当に幸せでした。