ウェールズを行く 最終章 | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

コンウィーの2泊は、申し分ないラブリーな滞在だった。

ホテルはコンウィー駅とコンウィー川の港を結ぶ道の途中にあり、煉瓦造りの外観は、中世に迷い込んだと思わせる街並みにしっかり溶け込んでいた。

観光客が押し寄せるとは思えないこの小さな田舎町に、ホテルはきっと限られた数しか無いはずで、それにしても、このホテルは一人旅には贅沢過ぎる洗練されたホテルだった。

 

最初の晩にちょっとしたトラブルがあった。

一人旅の私に用意された部屋は、まるで屋根裏部屋のような部屋だった。

それはそれで一人泊なので何の問題も無かったが、古い建物なのかバスルームに水漏れがあり、フロントに連絡をすると部屋を替えてくれることになった。

結果、一人旅の私に、なぜか素敵なツインルームを提供してくれた。

家具や調度品が揃った広くゆったりした部屋は、恐縮してしまうほど私には贅沢だったが、何より嬉しかったのは翌朝目覚め、外を眺めた時の感動だった。

暗くなってから部屋を移動したために、外の景色は何も見えなかったのだ。

絶景でも何でもない普通の光景なのだが、その落ち着いた街並みは何とも心地良かった。

部屋にオーディオ設備が置かれていたため、私はスコットランドのエジンバラで購入したバグパイプのCDを取り出し、大きな音量にして聴いた。

う~ん、最高だ

素敵な部屋で気持ちの良い朝を迎え、朝食のために階下のレストランに向かったが、私が期待していた通りの実に雰囲気あるダイニングだった。

イギリスは食事が悪いとは聞いていたが、どうしてどうしてここの朝食は最高だった。

 

ふと、日本人らしいカップルがダイニングに入ってきた。

「ご旅行ですか?」

私は思わず声を掛けた。

「大学で英文学の教鞭を執っていましたが、退職祝いに妻と二人でイギリスを旅しています」

 

実は前日にコンウィー川の港で二人を見掛けたが、折角の美しい夕暮れであり、二人だけの雰囲気を邪魔したくないと思い、私は声を掛けるのを止めてしまったのだ。

老夫婦と言うにはまだ若く、かと言ってその落ち着きと言うか上品さが素敵なご夫婦だった。

「どうして、このコンウィーへ?」

そう聞かれたが、私にはこれと言う理由は無く、スコットランドのエジンバラからウェールズのカーディフまでの列車の旅の途中に立ち寄っただけだったことを正直に話した。

もちろん、事前に予約を入れてこの町に滞在した訳だが、予備知識はほとんどゼロだった。

 

確かにエジンバラからカーディフまでの途中には、湖水地方など評判の高い観光地はあるし、マンチェスターやリバプールなど歴史に培われた町も数多くある。

私のマニアックな嗜好からすれば、その昔「マンチェスターとリバプール」という曲が日本で大ヒットし、リバプールはビートルズが誕生した町だった。

それなのになぜ、それらをパスしてコンウィーへ?

"中世に迷い込んだような町" という文句に惹かれたのかもしれない。

 

目の前のご夫婦には確かな目的があった。

「ウェールズ+史跡(コンウィー城/カナーヴォン城)+ロンドン(レ・ミゼラブル、ビリー・エリオット、マンマ・ミアの鑑賞、究極はロイヤル・オペラハウスでカルメンを鑑賞)」 

気楽な旅烏の私とは異なり、正にご夫婦で真面目に旅を楽しむという感じだった。

そのご夫婦との会話の影響から、2日目は予定の空いていた私は、コンウィ駅前から路線バスに飛び乗り、カナーヴォン城のある隣町に向かった。


”史跡を巡ろう” などという師匠な向学心はこれっぽっちも無かったが、カナーヴォン城はコンウィー城に比べ、しっかり修復がなされ観光客もそれなりに多かった。

ただ、見学客が私一人しかいなかったコンウィー城の方が私は好きだ。

このコンウィーやカナーヴォンが世界遺産だったことを、私は随分後になってから知った。

コンウィーからカーディフ、それからロンドンに向かったが、ロンドンの街をブラブラ歩きながら、オペラやミュージカルの看板がやたら目に付き、それを見る度にコンウィーで偶然出会ったあの素敵なご夫婦との朝の会話を思い出した。

オペラやミュージカルを満喫し、思い出いっぱいにして帰国されたことだろう。

 

シドニーに戻り、私はコンウィーで偶然お会いしたご夫婦にメールを送った。

直ぐに返事が届き、そして数日後に郵便で何冊かの詩集が届いた。

名刺には大学の名誉教授という肩書が書かれていたが、なんと日本の詩壇では著名な方だった。

また、ヨーロッパ文学の著名な研究家の一人でもある。

 

体躯堂々、学問には無縁の体育会系の私に、そのような "偉い先生" から丁寧な返事が届いた。

その後も、私の送る稚拙なメールにも必ず心を込めて返事をくれた。

私のこのブログのことは知らせていない。

 

数日前に最近出版されたという自著「詩神を求めて」が届いた。

お二人とのコンウーィでの出逢いについて、私がブログに書こうと思っていた矢先だった。

私は、"偉い先生" と表現したが、私の憧(あこが)れ "男はつらいよ" の寅さんなら、きっとそう呼んだに違いないと思いそう表現した。

大学教授(志村喬や小林圭樹)、獣医師(三船敏郎)、寺の住職(松村達雄)・・・

いわゆる "偉い先生" に寅さんは忌憚なくものを言う。

それなのに、なぜか寅さんはそのような偉い先生に愛されるのだ。

先生の詩集は私には難解である。

「カスタリアの泉」の表紙は、あの池田満寿夫氏が担当している。

新聞には「ギリシアへの歓喜と賛歌」と題して書評が掲載されている。

私は、寅さんよろしく、率直に感じたままをぬけぬけと先生宛のメールに書いた。

 

踏みしめる小さな石にも

過去と現在と

そして未来の光を発見

そこには

崇拝と英知の愛の眼が

光っている

 

小さな石を拾う

古代コリント

アテネのアゴラ

パルテノン

ミケーネ

デルフィで

小さな石を拾う

巨大な建造物を支えた石

ギリシア人が何千年もの間

踏みしめてきた石

流された血と

涙がしみ込んでいる石

君に感動はあるか

豊かな旅をして

遠く

大切な人を思う幸せ

 

 

この詩の一編に、どのような先生の思いが込められているのか?

不勉強の私には正直分かりません。

先生とお会いした旅の途中、私は遠く旅立った大切な人(石塚武生先輩)が愛したロンドン郊外のリッチモンドを訪ね、彼が所属したリッチモンド・ラグビークラブのグラウンドの小道でラグビーボールの形をした「小さな石」を拾いました。

1914年に創立したリッチモンド・ラグビークラブの歴史の中で、多くの先人たちがこのラグビーボールの形をした小さな石を踏みしめてきたことでしょう。

そこにラグビーというスポーツやこのクラブの発展における人々の英知や愛や、そして血も涙もあったことと想像してしまいます。

今、私には豊かな旅をした感動があります。

そして、遠く旅立たれた大切な人を思いました。

 

先生の大切な詩に、私の勝手な想像力を押し付けてしまい申し訳ありません。

写真はこのクラブの1961-2006までを記録したクラブブックです。

それから、私が拾ったラグビーボールの形をした小石です。

石塚先輩はこのクラブを心から愛し、このクラブブックに記された1961-2006年までの間に2度コーチとして所属されました。

ロンドンの生活に困窮する中、無償でコーチングに汗を流し、涙したことも多かったようです。
オーストラリアから
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先生から返事が届いた。

初めて頂いたメールに、あのイギリスの旅の途中に、石塚先輩の思い出の地を尋ねられた事を書いてくださっています。

今回改めてインターネットで調べました。

私は無知でしたが、本年8月6日に急逝された石塚武生氏のことと判明致しました。

石塚氏への尊敬と親しみのお気持ちは並大抵のものでは無いと拝察致します。

 

加藤様により、連想は「小さな石」から「豊かな旅をして/遠く/大切な人を思う幸せ」とふくらみ、私の拙い詩片が新たな命を頂いたような気がします。

今回お送り下さったリッチモンドのクラブ・ブックに添えられた小石の写真には、息を呑む思いが致します。写真を見ながら、繰り返しメールを拝読し、その都度涙を覚えております。

それは私だけではなく、詩集出版のお世話になっている出版社の年配の女性編集者も同様でした。私信ではありますが、(以前の)詩集に関わる事でもありますし、その女性にも読んで頂きました。

自己紹介の一端のつもりでお送りした詩集3点、お読み下さり、お礼申し上げます。

加藤様のように実感を持って独自の目と心のアンテナによりお読みくださる方は少ないように思われます。

お陰でこの小詩集は新たな命を得たような気がします。