愛すべきパートナー ”ケニー” | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

私には素晴らしいパートナーがいる。

彼は私の弟のような存在で、私の家族にとっても極めて大切な存在なのである。

 

彼の愛称はケニー、この3月で49歳になる。

大学時代に英米文学を専攻し、卒業後に本物の語学体験をするためにシドニーを訪れた。

故郷は私と同じ栃木県、専業農家の長男であり、芯の強さと正義感は人一倍強い。

彼は私より数ヶ月早くシドニーに到着したようだが、子供の居る家庭にホームステイし、家族の一員として認められ、文字通り理想的な海外生活を開始したようだ。

 

ケニーや私がシドニーに到着したのは1988年、建国200年を境にオーストラリアは、社会的・経済的に大きく変貌を遂げようとしている時代だった。

必然と言えばそうかもしれないが、ある偶然から私は彼に出逢う機会に恵まれた。

出逢った頃、彼はチャイナタウンの日本食テイクアウェイ(持ち帰り)ショップで働いていた。

日本人オーナーの手となり足となり、単なるキッチンハンド(皿洗いなどのサポート)でなく、調理も含め、経営に関わる部分、特に英語が必要とされる部分の全てを任されていた。

 

オーナーは根っからの板前気質で、腕は確かだったが、人付き合いや特に英語はカラッキシ苦手な人だったため、ケニーの能力が必要不可欠だった。

オーナーはケニーの永住権申請のスポンサーとなり、彼は早い段階で永住権を取得した。

日本食ブーム到来を前に、板前の仕事が永住者に必要なスキルとして認められた時代だったが、当然、全ての申請に関する手続きはケニー自身が行ったのは言うまでもない。

チャイナタウンの一角、繁華街に面し、テイクアウェイ・ショップとしては最高の立地だった。

朝早く、車で通るとケニーが一人で仕込み作業をしているのが見て取れた。

客のほとんどがオージーであり、ケニーのフレンドリーさが着実に客を増やしていた。

 

そんなある日、突拍子もない事件が起きる。

昼下がり、日本人留学生風の若者2人が、店頭で中に入るのをためらっているようだった。

「どうせ、インチキな日本食だろ、絶対マズいに決まってるぜ!」

一言二言言葉を交わし、結局店内には入らずにその場を離れようとしたようだ。

その2人の会話はケニーにも、横で刺身を切っていたオーナーにも聞こえてしまう。

おもむろにオーナーは庖丁を持ったまま店を飛出し、2人を追い掛けた。

なんとオーナーは、その若者の1人を刺してしまったのだ。

当然殺意は無く、彼ら2人の心無い言葉やその侮辱を晴らすための威嚇だったらしいが、結局、訴えられて裁判になってしまったようだ。

 

専門の通訳を雇う金銭的余裕の無いオーナーは、全てをケニーに託す形となった。

私はそこまでは知っているが、その裁判の結果がどうなったのかは知らない。

ケニーはそれを口にしようとしなかったし、何を置いてもオーナーへの恩を優先したようだ。

実際、その話はケニーから聞いたのではなく、ゴシップ好きだった私の仕事のボスから聞いた。

一時期、ケニーが一人で店を切り盛りしていたのを私は記憶している。

 

私は「ヤクザ映画」に夢中になっていた時代があり、そのオーナーが任侠道の侠客のように見え、私はあれでケニーはしっかり面倒をみてもらっているものと考えていた。

そのオーナーは、"浮世の流れに逆らいながら、庖丁一本さらしに巻いて" という感じのする人で、奥さんも子供もいたが、なぜか幸せそうには見えなかった。

もちろん、それは私の身勝手な想像である。

シドニーの日本人社会は狭い世界であるにも関わらず、様々な人間模様を見ることが出来る。

それが日本で生活した頃のように、別の世界で生きる人々という感じでは無く、とても身近に存在しており、「え!あの人が?」と思うことが実に面白くもあり、怖くもあった。

 

オーナーとケニーの関係は、私の予想に反し、オーナーは、金銭的な貸し借りや売上げのほとんどを競馬やドッグレースにつぎ込んでしまうような人だったようだ。

我慢強いケニーだったが、"このままでいいのか !?" とストレスは溜まるばかりだったようだ。

その頃、ケニーと真剣に話す機会は無かったが、私の兄が自著「死に至るノーサイド」の取材にシドニーを訪れ、同じ栃木県人同士だったため、ケニーを我家に招待した。

 

当時、私が勤めていた船舶の仕事に欠員があり、日本人のボスからの強い要望もあり、私がそれをケニーに話し、即断即決でケニー自身が転職を決めた。

当然、ケニーのボス(テイクアウェイのオーナー)にとっては穏やかでは無かったようだ。

「俺は加藤を刺す!」と本気で言っているという話を遠回しに聞いた。

彼がケニーの転職をヘッドハンティング(引抜き)と思ったのは理解出来るが、私自身使われの身であり、ケニーの雇用に関し、何かを決断出来る立場には無かったのだ。

 

シドニーの狭い日本人社会、私のボスは「全ては加藤の判断」とあちこちで喋っていたようだ。

だが、なぜかその後テイクアウェイのオーナーに出逢うことは無かった。

人の噂に、奥様を病気で亡くされ、店も人手に渡すかもしれないと聞いた。

幼い息子と娘を抱え、それは本当に気の毒に思えてならなかった。

その後、チャイナタウンのヘイマーケット正面の角にあった「富士山」という店は「蔵」という名前に替わり、そこにオーナーの姿は無かった。

 

弱肉強食であるシドニーのレストラン業界、アイデアと腕さえあれば成功のチャンスはある。

ケニーがいれば、まだまだ発展したかもしれないが、ケニーは私と共に働く決心をした。

ケニーは一緒に未来の夢を語れる私のパートナーとなった。