愛すべき日本からのお客様 | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

25年もシドニーに住んでいると色々なお客様がやって来る。

後で考えるとほとんどが笑い話の類だが、時には互いの思いがすれ違い、ナーバスな状況に陥ることもあり、それが起因して折角の再会が台無しになることがある。

そのほとんどが、来訪者の軽い旅行気分とこの街で仕事や生活に追われている私達の立場の違いから生じるちょっとしたトラブルなのである。

「シドニーに行くよ!」

そんな連絡をもらうと、ほとんどのケース、私達はその到着を心待ちにする。

空港で顔を見るまでのワクワク感は、それはそれは何とも言えない上気した気持ちなのだ。

私の待つ場所からは空港内部の税関や検疫セクションが見えず、ちょっと出てくるのが遅かったりすると、何かトラブルでもあったんじゃないか?とつい心配してしまう。

そんな風にワクワクしながら待つ私達の心が、時には裏切られることもあるのだ。

 

思い出すと色々な人の顔が浮かんでくる。

大手旅行代理店に勤める大学の後輩が、高校の修学旅行に添乗してシドニーにやって来た。

私はホテルを訪ね、後輩との再会を喜んだが、添乗した高校はなんと私の故郷の高校だった。

教頭先生が引率されており、後輩は私に彼を紹介し、懐かしい故郷の話に花が咲いた。

可愛い後輩のためと思えば、シドニーに住む者にしかできない私なりの後方支援を行った。

その修学旅行は数年続き、その度に私は協力を惜しまなかった。

その数年後、その教頭先生から直接連絡があったが、学校を定年退職し、奥様をシドニーに連れていきたいと思っているので、その時は是非会いたいということだった。

それはそれで嬉しい連絡だったのだが・・・

画して、私はご夫婦を空港で迎え、シドニー市内観光、昼食、ホテルチェックイン、夕食・・・

翌日は、シドニーから片道100kmのブルーマウンテンに行きたいという。

ホテルにご夫婦を迎えに行く早朝、運転中の私に突然電話があり、それは、私の長年のパートナー "ノディー" の急逝を知らせる電話だったのだ。

ホテルに到着して、私はそれをご夫婦に告げたが、それでも、二人は出掛ける気満々だった。

「では、行きましょう」

私はこの旅行を請け負っている訳ではなく、全てボランティアなのだ。

 

日本の旅行代理店のシドニー支店は幹部以外は、そのほとんどが現地の非正規社員で、修学旅行などに添乗するガイドは、そのほとんどが別会社の契約社員なのである。

元教頭先生は何回かの修学旅行中に出逢ったガイドの女性にも連絡をしており、彼女のアパートで夕食をご馳走になる手はずを整えていた。

 

私も彼女のアパートにご一緒することになったが、思わず彼女と顔を見合わせてしまった。

「先生は何か勘違いしてるわよね!」

以前から面識のあった彼女は私にこそっと言った。

私は元教頭先生ご夫妻の前でハッキリ言ってしまったが、彼は私の言葉を聞いて「私はあなた達がXXX(アルファベット3文字の旅行代理店)の社員だと思っていました」と言った。

旅行代理店にはドル箱の修学旅行、その決定権を有する学校の元幹部、そのドロドロした関係が私達にまで波及した典型的な例であり、来て欲しくない訪問客だった。 

 

片やこんな人も居た。

ある商社に勤めるエリート社員だったが、シドニー出張の際、彼を親しい知人に紹介された。

彼はゴミ処理のプラントをオーストラリアに売り込むというミッションを抱えていた。

なるほど、日本の革新的な技術はとても魅力的で、大雑把なオーストラリアには可能性十分なプロジェクトと思えなくもなかった。

そして、私にはそのプロジェクトに加わりたいという多少の下心も無くはなかった。

 

知人の紹介だったこともあり食事に誘った。

とにかく仕事熱心な青年で、彼は食事中も、ずっと仕事の話に没頭するばかりだった。 

そして、商談成立の暁には、私にこのプロジェクトに加わって欲しいという話も飛出した。

それは当時の私には夢のような話だった。

 

帰国の前夜、再度、私は彼をお気に入りのイタリアンレストランに連れて行った。

紹介するつもりで家族を一緒に連れて行ったが、相変わらず仕事の話を続け、挙句の果てに「最新のゴミ処理法は・・・」と、会食中に生ゴミの具体的な処理方法の話を始めた。

そんな彼のマナーには驚くばかりだったが、仕事の話に夢中になりながらも、私は彼が自分の嫌いな野菜などを皿の端に取分けていたのを見逃さなかった。

「そんな食い方をするから、生ゴミが出るんだよ!」と言ってやりたかった。

私の家族は美味しいものを「美味しいね」と言いながら食べることに幸せを感じるタイプで、彼を招待して、ただ、馴染みのレストランで美味しくイタリアンを食べたかっただけなのだ。

 

基本的に私は ”一生懸命食事をしない人” が嫌いなのだ。

「我思う故に我あり」と偉大な哲学者デカルトは言ったそうだが、私や私の家族は、「我食べる故に我あり」を家訓の様に貫いているのだ。

その青年とは、それきりの関係で終わった。

オーストラリアにそのプロジェクトやプラントが導入されたという話を聞くことは無く、単なる無責任な噂かもしれないが、彼はうつ病で苦しんでいるということだった。

高校、大学、社会人を通じ、私を弟のように目を掛けてくれた先輩から連絡があった。

「お前のことが心配だから、一度シドニーに行こうと思うが・・・」

それは先輩らしい一方的な物言いだったが、任侠道の主人公がそのままネクタイを付けたような人であり、その連絡を受けてから、私はその到着を指折り数えて待つ毎日だった。
 

再会の瞬間、変わらぬ先輩の言葉やその仕草が嬉しかった。

ゴルフ好きと聞いていたため、私は事前にゴルフ場やレストランを予約しておいた。

ちょっと不似合いだったが、オペラハウスのコンサートの予約もした。

その先輩が以前担当した企業の会長がこよなく愛したという "マーラーのアダージオ"(シドニー・シンフォニー・オーケストラ)のチケットを2枚購入し、私も一緒に行くつもりでいた。

もちろん、我家にも招待するつもりで、妻は先輩が喜ぶ献立(日本料理)を考えていた。

まずは2日連ちゃんのゴルフ。

初日は海沿いの雄大なゴルフ場だったが、先輩もまずまずのスコアで気持ち良く楽しめた。

ところが、翌日は異なった。

3番ホールで、先輩はオーストラリア独特の蔓(つる)の張っているブッシュの中にボールを打ち込んでしまい、クラブを何度振ってもボールは出なかった。

「そこは出ませんから、出しちゃって下さい」 

私は軽い気持ちでそう言った。

その途端、先輩から言葉が消えた。

そして、その後2人乗りの電動カートには乗らず、クラブを1本持ち、不機嫌極まりないという態度でグリーンに近付くと、「ギブアップ」と吐き捨てるように私に告げる。

*ギブアップとは、パーの3倍のスコアになるというルールがあるそうだ。

7番ホールまで進んだ時に、私は耐え切れずに先輩に告げた。

「もう、やめましょう!」


先輩は  ”日本の接待ゴルフ” を私に望んだようだ。

40代前半の先輩は、日本でずっとそういうゴルフをしてきたに違いない。

上司やお得意先とのゴルフ、日本では先輩が私の役目を果たしていたのだろう。

ブッシュにハマったボールを先回りして打ちやすい場所に出しておき、どんなショットにでも「ナイスショット!」と明るく声を掛ける。

そんな出鱈目な接待ゴルフのマナーを私に求めたのだろう。

 

帰りの車の中でも、先輩は不愉快さをあらわにした。

「昨日もそうだったが、お前はなぜナイスショットと言わないんだ!」 

案の定、そう言われたが、ナイスショットと言えるようなショットは一度も無く、もしそう言えば逆に失礼になると私は考え、何も言わなかったのだ。

「お前はなぜオーケーと言わないんだ!」 

シドニーでゴルフを始めたばかりだった私にとって、先輩が怒っている ”オーケー” と声を掛けることの意味が、正直何を意味し、どういうことなのか分からなかった。

*オーケーとは、グリーン上で確実に入ると認めた時に掛け、パットを免除する意味だった。
オーストラリアから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そう言えば、日本のサラリーマンをもじったパロディー映画(洋画)で、同じようなシーンを観たことがあったが、まさか私自身がこんな目に巻き込まれるとは夢にも思わなかった。

先輩の言葉はどんどんエスカレートしていった。

クラブが汚い、ボールが新品じゃない、カートが古くてオンボロだ・・・ 

言うに事欠いてゴルフ場のカートやメインテナンスにまで文句をつける始末だった。

 

ゴルフを途中で切り上げホテルに戻ったが、それでも治まらず、私的なことまで言い始めた。

「私は誰にも迷惑を掛けずに普通に生活しているんです!日本と同じことを求めたいのでしたら、オーストラリアになんか来ない方がいいんじゃありませんか!」

私はそう言い放って、そのまま家に帰ってしまった。

 

その晩は、我家で妻のこしらえた日本料理と日本酒を楽しみ、翌日は市内観光をして、夜はオペラハウスのコンサートの予定だったが、私はそれ以降ホテルに顔を出さなかった。

先輩がどのように時間を過ごし、帰国したか?を、私は知らない。

それから20年間、その先輩に出逢う機会は無い。

なんとも、寂しいことだ。