母心はいつの時代も不変なのだ! | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

一昨年の年末、母が大腸がんの手術を受けた。

訪日中だった私はその手術に付き添ったが、医師の説明では、がんの部分を深くえぐり取る手術が必要だったようで、その結果母は歩行困難な身体になってしまった。

 

私は仕事で訪日する度に必ず短い時間でも見舞うようにしている。 

歩かないことが、この1年で気丈な母を一気に病人にしてしまったように感じてならない。

私の友人やオーストラリアのコーチ達を実家に連れて行けば手放しで喜び、一生懸命もてなす母だったが、もうそれは叶わなくなってしまった。

畑仕事や友人達との旅行をこよなく愛した母を考えれば、延命措置の手術を選ぶよりも、歩く機能を残す手術が可能だったのなら、どうしてそのように医師に依頼しなかったのか !? 

私には、そんな後悔が残る。

 

昨年末に83歳になった母は、昭和4年に東京の本郷で生まれた。

父親(私の祖父)は厳格な人で、戦前戦中、警視庁本富士警察署の特高刑事だった。

母親はウタといい、母を産んでから病気がちだったようで、母が3歳の時に他界した。

一時期、子供のいなかった田端駅前の叔父の家に預けられたようだが、その後、父親が再婚してからは、継母の元で暮らすようになり、3人の弟と2人の妹が次々に誕生した。

いわゆる ”まま母” との暮らしは、幼い母にとって、孤独で辛い日々の連続だったようだ。

昭和20年3月10日の東京大空襲で家は焼けてしまったようだが、それ以前に母は宇都宮市の親戚の家に疎開しており、そのまま宇都宮が永住の地となった。

あの悲惨な大空襲で、当時通っていた共立女学校(今の共立女子大)の友人の多くが亡くなった話を、私は幼い頃に母からよく聞かされた記憶がある。

 

東大が遊び場だった記憶、6歳の時に ”二二六事件” が起き、特高刑事だった父親が家に戻らず怖かった記憶、父親がよく東大の学生を家に呼び、食事を食べさせていた記憶・・・ 

日本がどんどん戦争へと突き進む時代、そして戦中、戦後の混沌とした時代、母の幼少から青春時代はそのような流れに飲み込まれてしまったに違いなかった。

そんな時代に在って、母には多感な時期に実の母親が居なかったのだ。

 

厳格だった父親(私の祖父)は、晩年よく我家を訪れ、長期間滞在した。

3歳の時から実母に甘えることの出来なかった娘(母)を、父親としてずっと心の中で不憫に思っていたに違いなく、祖父は母に優しかったし、取り分け孫の兄や私を可愛がった。

私はそんな祖父が大好きだった。

厳格さは昔のままで、朝の挨拶や廊下や台所の雑巾がけをさせられるのが嫌だったが、いつも一緒に雑巾をかけながら、決まって口癖は「大物になれよ!」だった。

 

私は幼い頃に一度だけ本気で母に叩(たた)かれた記憶がある。

ほんの些細なことだったが、私がガラスを割ったことが理由だった。

母は今もよくその時のことを私に話す。

「可哀そうなことをしちゃったね」と涙まで浮かべながら私に謝ろうとする。

 

父と母は苦労を重ねて土地を購入し、私が小学1年生の時に新築の家を建てた。

やっと届いた大型のガラス、いたずらだった私の不注意からそれを割ってしまい、私はその場で直ぐに謝らず、その場から逃げ出したことが理由だった。

謝らずに逃げた私を、母は本気で何度も叩いたのだ。

今なら電話一本でガラス屋がすぐに入れ替えに来るだろうが、当時は電話も自家用車も無い時代、再注文するにはどれだけ時間を要したことだろう?

新築、そして父や母にとって夢の住まいだったのだろう。

多少贅沢でも、明るい家にしようと、当時は高額だった大型のガラスを注文したに違いない。

 

50年も前(私が小学1年の時)のことなのに、母にとっては、それが苦しかった時代を一生懸命に生き抜いて来た頃の証のような思い出なのかもしれない。

物が溢れる今のような豊かな時代だったら、きっと幼い息子を叩くようなことは無かったのに。 

そう思っただけで、昔から涙腺のゆるかった母はどうしても涙が溢れてしまうのだ。

勝気だった母は、いつだって涙もろかった。

 

まあ、よくある昭和のエピソードかもしれない。

私を叩いた母は、例えそれが私への躾けだったとしても、50年も経った今も悔いているのだ。

そして、私もあの時のことを忘れてはいない。

家の新築、それに伴う様々な支払い、生活費、明日の仕事、子育て・・・ 

共稼ぎだったが、後から後から様々な悩みや重圧が母にのし掛かっていたに違いないのだ。

私も息子を叩いたことがあったが、母が今も悔いる気持ちが分かるような気がしてならない。

幼い頃の些細な事件を思い出しながら、母の声が聞きたくなった。

 

久し振りで母に電話を掛けた。

きっと耳も遠くなっているのかもしれない。

言葉が途切れ途切れになる。

そして、何度も何度も同じ言葉を繰り返す。

「いつ帰って来んの?」「帰って来んの待ってるよ」「早く帰って来なよ」・・・
オーストラリアから
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

訪日した際に「野口英世」に宛てた母「野口シカ」が書いた直筆の手紙のコピーを手に入れた。

渡米して12年・・・ 

"世界のDr. 野口" と認められ頃に、ニューヨークの英世宛てに送られた手紙である。

 

その手紙には、下記のような解説が添付されている。

「極めて稚拙な筆で精一杯努力して書かれたこのたどたどしい手紙には、天衣無縫(てんいむほう/ものごとに技巧などの形跡がなく、自然なさま)の母の愛が、一字一字ににじみ出ている」

 

福島県の極貧の農家に生まれたシカは、幼い内に両親に別れ、7歳で奉公に出された。

それからは、子守りや野良仕事に追いまわされながら、誰もが寝静まってから月明りに照らして、木炭で ”いろは” を習ったと言われている。

その手紙を要約すれば・・・

 

おまえの出世に驚き 私も喜んでいるよ 

観音様に毎年籠っています お前が来たらお礼に行きましょう

春になると皆が北海道に行ってしまい 私は心細くなるので どうか早く来て下され 

金を貰ったことを誰にも言っていません 言うと飲まれてしまうから 

早く来て下され 早く来て下され 

早く来て下され 早く来て下され 

一生の頼みでありまする

西に向いて拝(おが)み 東に向いて拝み 北にも南にも向いて拝み 

毎月一日には塩断ちをし 和尚様に拝んでもらっています 

何を忘れても これだけは忘れません 

写真をもらいました 

早く来て下され 

いつ来るのか教えて下さい 返事を待ってます 

それを聞かなければ 寝ても眠れません

 

1,000円札の図柄にもなっている「野口英世」・・・

母の手紙には「早く来て下され」と息子の帰りを待ち焦がれる言葉が6回も書かれている。

いつの時代も、母の心は不変なのだ!と思いながら、私は次の訪日の日程を考えている。