海外移住を「夢」のように考える人は多い。
昔の南米移民などを思えばその過酷さに「夢」という言葉を重ねることは難しいが、それでも、彼らも夢を求めて新天地に向かったはずなのだ。
豊かな時代になった今、移住の目的は単なる生活苦から抜け出すためではなく、新たな可能性を求める目的で決断することが多い。
それは、いわゆる「夢を求める移住」だろう。
時々、私は自分達の移住を振り返る。
一見素敵に見える生活、また、あたかも成功しているかに見える仕事や子育てや教育・・・
その裏側には、日本にいれば簡単に出来たことや友人・知人・親族他に会うことなどを諦めなければならないという付帯条件が付く。
もちろん、永遠にそれが出来ない訳ではないが、年末年始だから、お盆だから、結婚式だから、葬儀だから・・・ という訳にはいかない。
実際、妻は友人はもちろん、兄や妹の結婚式にさえ出席していないのだ。
シドニーへの移住を決意、自分の決意が揺らぐのを恐れ、両親への報告は一泊だけだった。
それも、父が腎臓癌の手術から回復して間もない頃だった。
それでも、あの瞬間を越えなければ私達家族の移住はきっと実現しなかったはずだ。
結局、あれから出発まで実家を訪ねることは無く、私は成田から出発した。
シドニーに到着してすぐに、私は実家に電話を掛けた。
父が電話に出た。
「一生懸命やれよ!俺はダイジだから心配すんなよ」
*栃木弁では、大丈夫をダイジと言う。
青春を戦争に奪われ、復員して母と結婚、工場の歯車として働き、兄や私を育ててくれた父、贅沢をせずに、晩年は畑を耕すことに喜びを感じながら日々暮らした。
私が幼い頃、父が町の体育祭に出場し、小さな身体でいつも先頭を走っていたのを覚えている。
あの強靭な足腰がそのまま私や私の息子達にも受け継がれている。
本格的なプレー経験は無いものの、地元の不惑クラブでラグビーを始めた兄が私によく話す。
「おやじにスクラムハーフをやらせてみたかったなぁ」
がんを克服してから、父は痩せた身体でスキーや山登りを始めた。
町の老人体育祭にも出場した。
父は息子や孫達にスポーツを愛することの素晴らしさを残してくれた。
町の盆踊りでは、必ず真ん中で太鼓を叩いていた。
小学校のPTAの役員として運動会などで挨拶をするのが私は嫌で嫌で仕方が無かった。
台風予報が発令されれば、近所の防災のため家屋を守る準備を手伝い、被災した家があれば、その修繕を手弁当で引き受ける人だった。
昭和の父親であり、大工仕事も井戸掘りも、そして百姓も・・・
何でも出来る人だった。
移住から3年後の1992年に、私達家族はオーストラリアの永住権を申請した。
永住権申請中は、いかなることがあってもオーストラリア国外に出国することは出来ない。
兄から父の癌の転移を知らせる電話があった。
「親父を入院させたけど、一応覚悟はしておけよ!」
その言葉は重かった。
そう、移住を決めた時に、親の死に目に会えないことを覚悟したはずだったが、いざそれが現実になってみると、言いようのない寂しさが私に襲い掛かり、何も出来ない自分が情けなかった。
父の傍らで看病する母や兄夫婦にも何も出来ず、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
当時は電話以外に通信手段は無く、電話が鳴る度に覚悟をして受話器を取った。
時々母に電話を掛けると、私達を心配させまいとして平静に喋るのが手に取るように分かった。
演技の下手な母は、いつも話をはぐらかした。
「爺ちゃんは、はっ君に会いたがってるんだよ」
はっ君とは長男隼人の愛称で、次男が生まれた直後、長男を長期間、私の両親にあずけたことがあり、それが父の手術後の回復時期と重なり、長男の成長が父の生きる糧となっていた。
出発を前に一泊した際、母は私に言った。
「はっ君が行っちゃうのが、爺ちゃんには一番寂しいんだよ」
私はダメ元で永住権申請を依頼した弁護士にイミグレーション(移民局)への交渉を依頼した。
父が入院している病院が発行した診断書も添えてアピールもしてもらった。
その結果、1週間の日本への渡航ビザを発給して貰えることになった。
我が家の経済的な理由だったが、私と長男(はっ君)だけが日本に向かった。
翌朝、私と隼人(6歳)は日本に到着し、そのまま父の入院する病院に向かった。
病室に入ると、まず目についたのは、おびただしい数の管が父の顔や身体の周りを取り巻き、見ただけで、ただ事では無いという感じだった。
隼人にとっても大好きな爺ちゃんだったが、父を見た瞬間、後ずさりし母の陰に隠れた。
母は病院に寝泊まりして看病していたが、私の目に飛び込んできた状況とは裏腹に、切羽詰った様子は無く、私と長男の訪日をとても喜んだ。
父は眠っていたが、母が私と長男の到着を告げると、父は目を覚まし、私を見て一瞬嬉しそうな表情をしたが、口を開くことはなかった。
母の後ろに隠れていた長男に気付いた時に、父は大きく目を見開き、起き上がろうとした。
私は、それを見てビックリした。
結局、私に父が口を開くことは無かったが、長男には短い返事を返していた。
私達が到着してから4日目の朝、父は静かに息を引き取った。
享年67歳だった。
私は悲しむ間も無く、通夜と告別式を終えた。
オーストラリアを訪れるつもりで作った父のパスポート、一度も使うことのなかったそのパスポートを、「一緒に行きたかったね」と語り掛けながら、出棺前に母は父の胸元に差し込んだ。
悲しかった、本当に悲しかった。
告別式を終えた晩、親しい親戚や友人が残り、父の思い出を語り合ったが、その挨拶で母は突然大声で「海ゆかば」を唄い出した。
それは元海軍兵士だった父を送り出す唄だった。
通夜、そして葬儀、ずっと気丈に振舞った母の唄う姿を見て、私は息子の前で初めて泣いた。
ビザの期限があるため、私は告別式の翌日、長男を連れて日本を出発した。
私達を見送る母の涙が心配だったが、それも乗り越えなければならなかった。
あれから20年の月日が流れたが、今も時々、父に守られていると思うことがある。