タックルマン石塚武生先輩に捧ぐ | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

今回は、2009年8月に突然他界された石塚さんの思い出を綴りたい。

*敬語を使わないことをお許し願いたい。

 

石塚さんは、日本ラグビー界の発展のために草の根の努力をされた人だった。

私にとっては早大ラグビー部の先輩だが、雲の上のような存在だった。

私が新入生の時に ”赤い悪魔” と恐れられたウェールズ代表が来日、世界最高のウイングと言われた ”JJウイリアムス” を一発タックルで倒した石塚さんの雄姿が今も私の目に浮かぶ。

 

1997年、石塚さんにとって早大ラグビー部監督2年目の夏、石塚さんから夏合宿(菅平)に向けたスポットコーチの依頼があり、私はコンタクトプレーの指導を任された。

オーストラリア移住から12年後の2001年に、私はARU(豪州ラグビー協会)のバックアップで日本へのコーチング普及活動を開始したが、研究熱心な石塚さんは、オーストラリアのコーチ資格にも挑戦し、コーチングコースやセミナー等にも積極的に足を運んでくれた。

レジェンドのそぶりすら見せず、一般のコーチと共にひた向きに学び、時には私達のスタッフとして手弁当でサポートすることを惜しまなかった。


それが縁で、亡くなる5日前まで、私は監督の石塚さんと茨城県常総学院のグラウンドに立ち、オーストラリアのコーチ達と共に、チーム強化のコーチングをサポートしていた。

滞在中、一緒にサウナに出掛けたり、古い居酒屋で一献傾けたりしたが、グラウンドで石塚さんが真剣にメモを取りながら選手達を鼓舞する姿勢が今も心に残る。

笑顔で次の再会を約束し、グラウンドを離れたのだが・・・

 

その年の10月に、私はイギリスを訪問した。

ロンドン滞在中に石塚さんがコーチ留学のために所属したリッチモンド・クラブを訪ねた。

私は石塚さんの愛した地 ”リッチモンド” を訪ねてみたかったのだ。

リッチモンドは川の流れる緑多き美しい街で、川面を競技用ボートが行き交う風景が何ともイギリスらしく、ここに住みたいと言った石塚さんの気持ちが分かるような気がした。

石塚さんはリッチモンド・クラブに2度所属したようである。

 一度目はリコーの現役時代にプレーヤーとして、そして、二度目は再就職先の伊勢丹を退職した後に、自費でコーチ留学に挑戦したようだが、石塚さんは会社の後ろ盾の無い状況で海外に住むことの厳しさを思い知ったようだ。

それでも、石塚さんはことあるごとに言葉を残した。

「いつかもう一度リッチモンドに住みたい」

 

私は何の予備知識も無く、駅名だけを頼りにリッチモンド駅に降り立った。

駅前のバス停に貼られた街の地図に「リッチモンド・ラグビークラブ」を探し当て、たまたまバス停に居た優しそうな中年女性に、地図を指さし「ここは歩ける距離ですか?」と聞くと、その女性はとても親切に道順を教えてくれた。

何の根拠も無いが、地元のラグビーが愛されているのを感じた。

 

この道を歩く石塚さんの姿を思い浮かべながら、私は教えてもらった方向に足を進めた。

程なくして、親切な女性の説明にあったクラブらしき看板を発見、試合の日程が書かれているため、私はここで間違いないと確信して入口の方に向かった。

土曜日だったため、私が予想した通り、グラウンドでは試合が行われていた。

3時キックオフで、ちょうど1軍の試合が始まるところだった。

入口で20ポンド(約3,000円)を払い競技場内に入場したが、単なるクラブ同士の試合に払う金額にしては随分高いなぁと率直に思った。

 

しばらく試合を観戦しながら、私は何か様子が変だと思った。

試合を行っている両チームの名前がリッチモンド・クラブではないのだ。

スコアボードにも異なる名前が書かれている。

観客の誰もが試合に熱中しており、私はそれを聞くに聞けないでいた。

ハーフタイム、見るからにこのクラブのオールドボーイと思われるお爺さん達に聞いた。

「リッチモンド・クラブはどっちのチームですか?」

「お前は、一体何を言っているだ?」という顔で要領を得ない。

「俺達はロンドン・スコッツだよ!」と繰り返すばかりだった。

結局、ラチが明かず、私は諦めて、グラウンドの横にあるクラブハウスに入ってみた。

 

クラブのスタッフと思われる若い女性に同じことを聞いてみた。

リッチモンド・クラブは、ロンドン・スコティッシュ・クラブと施設やグラウンドを共有しているそうで、その日はスコティッシュ・クラブの試合の日だったそうだ。

彼女は丁寧に説明を続け、スコティッシュ・クラブは1部リーグに所属し、リッチモンド・クラブは残念なことに今年から2部リーグに降格してしまったという。

リッチモンド・クラブの試合は翌週にあるということだった。

 

私は、その女性に思い切って聞いてみた。

「10年ほど前に、リッチモンド・クラブに日本人が所属していませんでしたか?」

「残念だけと、10年前には私はここにいなかったので知りません」

彼女はそう言って、別の部屋をノックした。

そして、彼女は、リッチモンド・クラブで古くからセクレタリーをしていたという ”ジャン・ピート” さんという名の女性を紹介してくれた。

 THE TOS BLOG

クラブのオフィスで作業をしていたジャンさんは、見るからに優しそうな女性だった。

「何でしょうか?何か御用ですか?」

「以前、このクラブに所属した日本人の、」

私がそう話し始めた途端、ジャンさんが言った。

 

「あ!タキのことね」

「はい、そうです。タキ・イシヅカのことです」

最初は怪訝そうだったジャンさんの顔が一気に和らいだ。

そして、ジャンさんは矢継ぎ早に言葉を続けた。

「私はタキのことを良く知っているわよ、彼は私の息子ととても仲良しだったから・・・ ところでタキは元気なの?今はどうしているの?」

 

私は息を飲み込んで、静かに話した。

「悲しい知らせなのです。タキはこの8月に突然亡くなりました・・・」

「えッ!それホントなの!」

ジャンさんの笑顔が急に暗くなるのが分かった。

ジャンさんは目をうるませながら、絞り出すように言った。

「それを聞いたら、息子もとても悲しがるわ」

 

「私はタキのラグビー仲間なのです。タキの思い出を辿りたくてここまで来てしまいました」

ジャンさんは、さっと私の手を握りしめ、「ありがとう!」と小声で呟いた。

「タキは、一生懸命このクラブのマネージメントを担当してくれたのよ。クラブの誰からもタキと呼ばれ、クラブの誰もがタキのことが大好きだったわ」

ジャンさんの声が震え泣き声になっていた。

「彼は、まだ若かったわよね」

「はい、56歳でした」

「・・・・」

 

ジャンさんはハンカチで涙を拭いながら、自分のオフィスに消え、直ぐに戻って来た。

「これをタキのご家族に渡してください」

そう言って、私にリッチモンドクラブのイヤーBOOK(1961-2006)を2冊手渡した。

一冊は私の分だと言った。

石塚さんがクラブの誰からも愛されていたと聞いて、目頭が熱くなった。

「タキがこのクラブに居た頃の写真を息子や友人がたくさん持っているはずよ。是非、貴方の住所かメールアドレスを教えてください」

 

クラブの仕事で忙しそうだったジャンさんをこれ以上引き留めておくことは失礼と思い、私はジャンさんに名刺を手渡し、丁寧に礼を述べて、その場を後にした。

「訪ねてくれて、本当にありがとう」

ジャンさんは何度も繰り返した。

 

グラウンドに戻ると、ちょうど試合が終了したところだった。

きっと石塚さんが何度も往復したに違いないグラウンドと観客席を結ぶ小道を歩き、ふと足元を見るとラグビーボールの形をした小石があった。

私は思わすその小石を拾った。

「もう一度、リッチモンドに住みたい」と言った石塚さんが愛したリッチモンドの小石を石塚さんに届けようと思い、私は小石をハンカチに包み、ポケットに入れた。

 

試合の終わった夕方のリッチモンド・ラグビークラブのグラウンドでは、マネージメント・スタッフ達が忙しそうに後片付けをしていたが、そんな彼らに石塚さんの姿が重なって見えた。

悲しかった、泣き出してしまいそうな気持だった。

ジャンさんに出逢えたことを感謝しながら、私はリッチモンド・クラブを後にした。

 

ここからは、石塚さん本人が記した文章である。

 

ロンドン郊外のリッチモンド。

リコーの社員時代に赴任した土地であり、2年間をプレーヤーとしてラグビーを学んだクラブチーム「リッチモンドクラブ」に、世話になることになった。

知人を介して承諾を受け、98年7月7日、たった一人で、成田からロンドンに向け出発した。

 

リッチモンドに着いて、早速、大きな試練が待っていた。

生活の基盤となるはずの居住フラットが見つからず、手頃な家賃の物件は数件見つかったものの、個人で借りることは、保証人が無いために断られるばかり。

日本の企業に所属していれば、何ら難しい事ではないのだが、この時ばかりは、企業に属する事の信用の大きさを実感した。

 

結局、ロンドンの居酒屋経営者に保証人を引き受けて貰い、とりあえず住む場所だけは確保できた。約一ヶ月程、小さなホテルを転々としながらの事、その後の暮らしを占う出来事だったが、なんとか英国生活をスタートさせることが出来た。

 

そうこうするうちに、生活も落ち着き、リッチモンドクラブでの練習にも参加しながら、住み慣れた街に溶け込むのは、そんなに時間はかからなかった。

英国ラグビークラブのトップレベルはプロチームになり、リッチモンドクラブもプロチームになっていた。

 

私はチームメイトから「タキ」と呼ばれ、色々な練習方法や、クラブの運営について、細かくメモを取り、毎日が勉強の日々。多くのことを吸収していった。

2ヶ月も過ぎる頃には私は完全にチームの一員となり、サブマネージャーとして働いていた。

とはいえ、無給での仕事。「サブマネージャーって何?」 自問自答を繰り返す毎日。

 

しかし、考えるよりも、とにかく与えられた役割をこなし、チームの一員として認めてもらう事、その思いだけが私を支えていた。

練習の日は、誰よりも早くクラブに行き、練習用具をグラウンドに出す。

練習が終われば、最後まで残って後片付けをするのである。

 

私は当初、チームメイトに一日でも早く認めてもらうために、ゴールキックのボール拾いやタックルダミーを持ち、ボール磨きまでやった。

そんな私にチームメイトが、「タキ」と声をかけてくれるようになり、一緒にランチを食べたりするまでになった事がとても嬉しく、遠征にも帯同できるようになった。

 

いつの日か、サブマネージャーとして、完全にチームの一員となり、練習、試合、遠征と、与えられた仕事をこなし、チームの一員としての充実感も生まれてきた。

しかし、やればやるほど、置かれた立場や、気持ちとは裏腹に、自身の中にある矛盾と向き合うことになる。

 

無給での、サブマネージャーの仕事・・・

ある遠征から、リッチモンドに戻り、時間は既に夜中の1時を回っていた。

選手達は、到着するとすぐに自分達の車に乗り込み帰宅してしまう。

残された私は、遠征に持っていった用具と、汗でずっしり重くなったジャージなどを、真っ暗な倉庫に一人で、繰り返し運び込む。英国の冬は寒く、また雨も多い。

 

仕事を終えてリッチモンドの街を帰路につく。

歩きながら自分自身が情けなくなる時も何度もあった。

何ヶ月もそんな事を繰り返す内に「俺は、何をやっているのだろう」と考えるようになった。

自分で家賃を払い、自分で食費を払い、こんな夜中まで頑張っていることが馬鹿らしく思えて来た。「何の為に英国まで来たのだろう !?」

 

ある時、いつものように片づけをしていると、無性に腹が立ちボールを蹴りつけた上に用具を投げつけて、ジャージを放り投げていた。

私は、目の前の散らばったジャージや用具を見てハッと気がつき、「こんな事して何になる。俺は自分の意志で伊勢丹を辞め、自分の意志で英国に行こうと決めたのではないか、そして自分の意志で片付けを始めたのではないか」

自分の意志で決めた事に何で腹を立てているんだ。涙が止まらなかった。

 

気が付けば、私の預金も底をつきはじめてきた。英国に来て1年が経っていた。

私は英国に来て1年間、多くのことを学んだが、一つ上げろと言われれば、「ラグビーが好きなんだ」という事、好きだからこそ、全て自分の意志で何でも喜んでやれた事にいつの間にか不平不満を持ちはじめていた。

自分の責任を、他人の責任にし、不平不満を言う自分自身の弱さを知ることで、改めて自身を律する事が出来た。

お金には変えられない、大切なものを得たような気がする。

 

不平不満を持ったまま日本に帰国すれば、リッチモンドで過ごした1年間は全く無意味なものになり兼ねなかっただろう。

もし私が、元日本代表だの28キャップだのと言う事に、変なこだわりや、プライドがあったなら、「何故俺が・・・」と言う気持ちになっていたと思う。

私はこの1年で、そんな表面的なプライドなんか、必要無いことを知った。

本当のプライドとは、どんな立場に置かれようと自分の意志で決断し、その責任を持てる強い精神力なのだと私は思う。

 

もちろんそうは言っても、私の心の中にある「日本代表のプライド」は、これから先も、自分を支えていくに違いないし、消える事は決して無いだろう。

「ラグビーが好きなんだ」と言う事を一番大切にして、今後は指導者として歩んでいく決心をした。それが英国留学1年間の総括であった。

 

ここからは、私の文章である。

 

会社等の支援を得ずに海外で生活したことのある者なら、必ず一度は通る試練だと思う。

それでも石塚さんがその試練から逃げ出さずに前向きに頑張ったことが、実際にこの足でリッチモンドを訪ねてよく理解出来た。

石塚さんはリッチモンド・クラブの誰からも愛されていたのだ。

短い会話だったが、ジャンさんの言葉や涙からそれが十分汲み取れた。

 

クラブからリッチモンド駅までの帰り道を歩きながら、本当に来て良かったと思った。

私には、天国の石塚さんがジャンさんに会わせてくれたのだという実感があった。

私にとって、一生忘れられない旅となった。