船の仕事は面白かった。
コンテナを満載した貨物船からは、日本とオーストラリアの貿易について知ることが出来た。
巨大な車輛運搬船からは、おびただしい数の日本車が専門のドライバーによって搬出されて港に整然と並べられるが、その光景からは、日本車の人気や貿易摩擦まで感じ取れた。
南極観測船“しらせ”が南極から日本への帰り道にシドニーに寄港した。
越冬の任期を終えて日本に帰る南極観測隊員やしらせの乗組員の話は、まるで南極物語を直に聞くようでとても興味深かった。
南極の氷を分けてもらい、それをオンザロックに入れて飲む時、何千年か閉じ込められた気泡のパチパチと弾ける音に何とも言えないロマンが感じられた。
豪華客船“飛鳥”への食料搬入は、もの凄い緊張感を伴った。
その代わり、仕事を手伝う度にキッチンスタッフの賄(まかな)い飯にありつけた。
それはそれは、何とも言えないご馳走だったし、普通では出来ない体験だった。
飛鳥はNYK(日本郵船株式会社)所有の豪華客船であるが、取引会社の特別優待を適用してもらい、妻と息子2人、妻の両親をブリスベンからシドニーまで(2泊3日)乗せることが出来た。
妻の父親は若い頃に外国航路船舶の乗組員だったため、古い写真の中に、まだオペラハウスの無いシドニー湾を背景に写した父の若い頃の写真を見せられた記憶が私にはあった。
そのため、この機会は良い親孝行となった。
彼らがシドニーに到着した頃、私はサーキュラキーの客船ターミナルで食料品を搬入していた。
*写真は息子2人と妻の母親/早朝のシドニー到着
私が勤めた間に、船舶業界が急速に様変わりしていくのを目の当たりにした。
日本のバブルが弾け、日本経済は冷え込み、その危機的状況が経済活動を変え始めていた。
私が見た変化など氷山の一角かもしれないが、まず乗組員がどんどん変化していった。
日本人ばかりだった乗組員が、徐々に船長と機関長だけが日本人で、他の乗組員はフィリピン人やインドネシア人という船舶が急激に増えた。
その影響から、船舶からのオーダーも大幅に変化した。
船舶からオーダーを受け、調達するのが私の仕事だが、以前のオーダーフォームは役に立たなくなり、中国系、フィリピン系、インドネシア系の発注が増え、食材を集めるのも一苦労だった。
今も忘れないのは、「サンベイ・アスリ」というチリソースはインドネシア人の必須食材、「ポーク・ブラッド(豚の血)」はフィリピン人の必須食材、シドニーにフィリピン食材専門店やインドネシア食材専門店があったのを私は知らなかった。
そのような乗組員の変化で、家族への土産品や免税品のオーダーは完全に無くなった。
漁船(マグロ船)の事情も、大きく様変わりしていた。
約20名のクルーでマグロ船は操業されるが、船頭と船長、機関長、甲板長(ボースン)だけが日本人で、他はインドネシア人という船が増え始めた。
日本人クルーは彼らを「ネシア」と呼ぶが、ネシアは良く働く上に大人しい性格なのだという。
日本経済の悪化、それに伴う人件費削減のための状況の変化、オーストラリアに住む私ですら肌で感じるほどだったが、船を訪問する楽しみはどんどん減っていた。
マグロ船は、乗組員の変化以上に大きな問題を抱えていた。
オーストラリア政府と日本政府間で締結される漁業交渉が大きなプレッシャーだった。
日本政府(農林水産省)の高官や日本の漁業を掌る組織の代表者がキャンベラを訪れ、毎年漁業交渉が行われたが、自然保護を訴えるオーストラリア、話合いは決裂の一途を辿っていた。
特にこの頃からグリンピースやシーシェパードの活動が過激になりつつあった。
捕鯨に対するオーストラリアやニュージーランドの過激な反対行動は有名だが、マグロに対してもオーストラリアは強硬な姿勢で臨もうとしていたのだ。
年間の漁獲高が厳しく制限され、以前はいい加減に行われていた漁獲高検査が、マグロ船が入港するや否や、係官が港で待ち受け、厳密に行われるようになった。
申告と実際の総トン数が異なり、ある漁船がシドニーの港に長期間拘束されたことがあった。
数年前までは、ほとんどの場合、裁判で船長一人の責任となり軽い罰金刑で済んでいたようだが、それがどんどん厳しさを増しているのが、傍で見ている私にも理解出来た。
こんなこともあった。
船を保有する日本の親会社の若い社長が男気を出し、「私が指示を出し、船長、乗組員には一切責任は無い」と証言したそうだが、その証言により、会社ぐるみの組織的犯罪と判断され、船は3ヶ月以上拘束され、最終的に罰金8億円で結審したと聞いた。
乗組員のほとんどは航空機で日本に帰国し、幹部3名ほどが残って船を守っていた。
私は毎日のように仕事帰りに船に寄り、彼らを労ったり差し入れをした。
もちろん何の力にもなれなかったが、それでも話をするだけで彼らの顔が明るくなった。
最終的には、日本のマグロ船のオーストラリア入港が禁止された。
世界で最も良い漁場とされたオーストラリアの200海里内での操業も禁止されたようだ。
その後、私はシドニーの港でマグロ船を見たことは無く、その措置は今も続いているようだ。
日本のマグロ船のほとんどは、宮城県の気仙沼や岩手県の宮古からやって来る。
昨年の大震災の際、私は電話帳に残っていた電話番号に片っ端から電話を掛けてみた。
すでに使われていなかったり、呼んではいるものの、一切応答は無かった。
私には大好きな船頭(漁労長)がいた。
私より少し年上だったが、若くして船頭として抜擢され、彼は神様と言われる船頭達からも一目置かれる存在だった。
かつてラグビーをプレーしたことがあるというこの船頭とは馬が合った。
シドニーの港に入港できなくなってからも、この船頭はハワイ沖の漁場からよく電話をくれた。
ただ、2000年シドニーオリンピックの年に電話をくれたのが最後だった。
2010年3月、私は気仙沼からそれほど遠くない南三陸町を訪れる機会があった。
オーストラリアのラグビーコーチ2人を連れてこの地を訪れた。
私は、10年ぶりでその船頭に電話を掛けるつもりでいた。
南三陸町の港を歩き、そこで海藻の仕分けをしていた年老いた漁業者としばらく話をした。
この南三陸の港に、外国人は珍しかったのだろう。
笑いが絶えず、本当に楽しい時間だった。
震災後の南三陸町の変わり果てた姿は、私やコーチ2人にも大きなショックだった。
あの時に話した皆さんの無事を祈るばかりである。
船頭は気仙沼市唐桑町という住所に住んでいた。
唐桑町は遠洋マグロ漁船関係者の多く住む地区と聞いたことがある。
震災の被害が大きかった地区だった。
私は震災以来、船頭に電話を掛け続けた。
船頭は珍しい名前だったため、知人にも依頼し、インターネットに捜索願いも出してみた。
もしかしてと思いながら、毎日更新される死亡者の名簿にも目を通した。
いつ頃だったか? 私の記憶には残っていない。
「もしもし」
以前、電話で聞いた奥さんの声だった。
私は自分の名前を伝えるのを忘れ、慌てて話を続けていた。
「奥さんですか?」
「✕✕船頭のお宅ですか?」
それを何度も繰り返していた。
「あ、加藤さん? シドニーの加藤さんですね」
「はい、そうです!船頭は・・・」
「大丈夫でしたよぉ」
思わず涙が出て、その後の言葉が続かなかった。
「かどーさん、ひでーめに遭ったよぉ」
船頭の太い東北弁はそのままだった。
何度も電話を掛けていたことを伝えたが、昨日やっと電話回線が回復したそうだった。