1988年12月23日に私はシドニーに到着した。
シドニー空港に向かう航空機の窓からハーバーブリッジとオペラハウスが見えた。
夢の実現に向けた第一歩のはずだったが、不安な気持ちの方が私の心を支配していた。
同じフライトに赤ちゃん連れの若い夫婦が搭乗していたが、フライト中ずっと泣かさないよう気遣っている姿を見ながら、3歳と10ヶ月の息子2人を寝かしつける妻の姿が重なった。
私が成田空港を出発する直前、空港ロビーで長男が迷子になった。
一世一代の出発を前に、誰もが心ここにあらずの状態だったのだ。
空港の館内放送にハッとして、インフォメーション・カウンターに私と妻は慌てて走った。
私と妻の顔を見た瞬間、担当の女性に付き添われた長男が大泣きした。
「ぼく、まいごになっちゃった~」
今でも私は、もし、長男が見つからなかったら、出発できたのだろうかと思ってしまうのだ。
フライト中、色々な思いが浮かんで来て、結局私は一睡もできなかった。
妻は子供2人を連れて、無事に家に帰れただろうか?
長男が迷子になったことも、思い出すと妻が心配になった。
母は地理も分からないのに、成田空港から宇都宮まで無事帰れただろうか?
そう、後戻りはできない! 私は家族やみんなのために無我夢中で頑張るしかないのだ!
私の移住の第一歩は始まってしまったのだ。
私は企業から派遣された駐在員ではなく、留学生でも観光客でもなかった。
その時点で、1年先、半年先、1ヶ月先、明日の状況さえも想像できない状態だったのだ。
シドニーに住む大先輩の好意に甘え、すでに彼の経営するクラブで働くことが決まっていた。
昼はレストランのウエイター、そして夜はバーのバーテンダーとして働く段取りだった。
百戦錬磨の大先輩は、到着したばかりの私の心をすっかり見透かしていた。
最初が肝心!感傷に浸っている暇など無い!とばかりに、即、私を厳しい状況に追い込んだ。
朝6時にキッチンの板長をアパートまで迎えに行き、フィッシュマーケットで魚を買付ける。
それをクラブに運び入れ、クラブの清掃、11時にはスタッフ全員が出社して開店の準備、12時から15時まではレストランのウエイター、その後スタッフミール(昼食)を挟み、17時にはバーが開店しバーテンダーの仕事が始まる。
閉店はいつも0時を回っていた。
今考えれば、あの時期に厳しい時間を過ごしたことは正解だった。
もし、時間を持て余し、パブ通いや軽い仲間と釣るんでいたら、その後の生活は推して知るべしだったに違いない。
私は大先輩に感謝するばかりである。
ウエイターの仕事には3年前に会社をサボって訪れた時の苦い思い出がトラウマとして残っていたが、ある種の慣用語を覚え、慣れることで徐々に戦力になることができた。
それでもワーホリのスタッフの卒なさに比べ、私のギコチなさはどうにもならなかった。
小生意気な若い女性ワーホリがなぜか新入りの私を毛嫌いし、私の失敗を見つけては私を能無しのように嘲(あざけ)り、ワーホリ中心のスタッフグループとの間に壁を作ろうとした。
オーナーの肝いりで加わった私への先制攻撃の意味もあったのだろう。
後々聞いた話だが、武骨な板前の指示で私を潰そうと画策していたようだ。
このクラブは官庁街の一角にあり、この地区には数少ない日本食レストランだった。
多くの日本企業の駐在員や領事館職員、飛ぶ鳥を落とす勢いだった大手旅行代理店の職員などが昼食に訪れたが、体躯だけは堂々として、どこかギコチなく、蝶ネクタイの似合わない30代半ばの私を、彼らが蔑(さげす)んだ目で見ているような気がしてならなかった。
2ヶ月ほど過ぎた頃、妻の高校時代の同級生が、ヒョッコリこのレストランにやって来た。
妻の親友だった彼女に、かつてオーストラリアの素晴らしさや私の夢を話したことがあった。
それが切掛けで彼女はワーホリでシドニーに1年間滞在し、そろそろ帰国する頃だった。
忙しくて話す時間はほとんど無かったが、彼女にちょっと豪華な昼食をご馳走した。
私よりシドニーでの生活に慣れた彼女は、丁寧に私に礼を言って立ち去った。
翌年4月、シドニーに到着した妻から聞いた話だが、日本に戻った彼女が妻に訊ねたそうだ。
「シドニーまで来て、加藤さんはあんな生活をするのが夢だったの?」
あの頃、それは私自身が一番感じていたことだった。
俺はこんな生活をするためにオーストラリアに移住したのか !?
ウエイターの仕事に比べ夜のバーテンダーの仕事は、多少緊張感はあったが、面白かった。
忙しい晩は目の前に5人もの客が立ち、それぞれのオーダーに対応しなければならない。
ドリンクは数十種類あり、とりわけオージーはビールの注文が多く、タブからスクーナーグラスへの注ぎ方に慣れるのに相当時間が掛かってしまった。
徐々に泡がモッコリ1センチほど盛り上がったグラスを客に出せるようになった。
そんなことにもちょっとした満足感があった。
クラブはNSW州の高等裁判所ビルの地下にあり、客の多くが法曹関係者だった。
言ってみればオーストラリアでもハイソな連中が集うクラブだった。
常連が多く、バーを任されたマレーシア人のボスは、ほとんどの客の職業や地位を知っていた。
仕事も含めこのボスには色々なことを教えてもらったが、知り得た私の知識からすれば、例えば裁判官や弁護士でも、地位が高ければ高いほど、まるで素人のような私に優しかった。
バーは夕方5時にオープンしたが、毎晩一番に現れ、最後に帰る常連客のデンマーク人エリックが、私には良き友人であり、いつも決まったカウンター席に座った。
カウンター越しの彼は私の良き英語の先生だった。
デンマーク移民向けに新聞の編集やFM放送にも出演していたが、酔うと決まって彼は私にデンマークの哲学者「キルケゴール」の説を話そうとした。
もちろんチンプンカンプンだったが、彼は私に探究心があることを見抜いていた。
ワーホリのベテラン日本人バーテンダー2人にエリックは一切話し掛けなかった。
つづく