シドニーへの移住 6 家族の到着 | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

1989年4月15日(土)、妻と息子2人がシドニーに到着した。

たった4ヶ月弱だったが、本当に待ち遠しかった。

 

私はボンダイビーチまで歩ける距離にフラット(オーストラリアではアパートをそう呼ぶ)を借り、とりあえず生活に必要な準備だけは整えておいた。

長男は7月で4歳、次男は1歳2ヶ月でまだベビーカーが必要だったが、日本のアパートとは比較にならないほど広いリビングで2人はハシャギまくった。

 

妻は日本で使っていた鍋や食器、その他細かいものを丁寧に梱包してシドニーに郵送していた。

それを25年経つ今も使っているのは、日本製品の素晴らしさを物語っている。

日本領事館やカウンシル(市役所)への届出などを慌てることは無かったが、まずやらなければならないことは、長男の幼稚園への申込みだった。

私はクラブの仕事を休むことが出来ず、長男のために、妻が身振り手振りで近所の幼稚園 ”ジャック&ジル” の申込みを済ませて来た。

それも到着の翌日であり、母親の強さにはほとほと驚いた。

慣れて来てはいたが、家族が到着したからといって、私の仕事のシフトは変わらない。

朝が早く夜が遅い私は、毎日家に戻るのが0時を回っていたが、長男が毎日楽しそうに幼稚園に通い始めたことを妻から聞いて、ホッとした。

ガキ大将のルーベン、インド移民の息子ラジエフ・・・ 

少しずつ長男の友達の名前が増えることが妻や私の喜びだった。

 
子供達と一緒に朝食を食べ、長男を幼稚園に送り、ベビーカーを押して次男とボンダイビーチに向かい、ビーチを臨むミニ公園で遊ばせるのが妻の朝の日課だった。

一見聞こえは良いが、6時前に家を出て0時過ぎに戻る夫の帰りを待ち、愚痴を話せる親兄弟も友人も隣近所のママ友もいない環境で、妻は黙々と子育てを頑張っていた。 

そんなある日、妻が、同じフラットに住むニュージーランド人夫婦から、次男と同じ年齢の娘キリーのベビーシッターを依頼された。

妻はそれを引き受けることになったが、日本語だけで世話をして欲しいという条件付だった。

彼らは私達家族に対し、いつもフレンドリーだった。

オーストラリア以外からの移民家族として、また、一生懸命働いて良い暮らしを実現しようとしている夫婦として、そんな共通点が友情や信頼関係を導いたのかもしれない。

 

妻は日本から持参した ”おんぶ紐” でキリーを背負い、次男をベビーカーに乗せ、今まで通り、長男を幼稚園に送り、ボンダイビーチに通うようになった。

オーストラリアには幼児を背負う習慣は無く、その珍しい光景に誰もが奇異な目を向けたが、他人の目や言葉に動じない妻の姿勢こそ、海外への移住には不可欠だったのだろう。

オークランド大学の同級生だったというNZ人夫婦は共稼ぎで、日々休みなく働いていた。

彼らの話からも、ニュージーランド経済は逼迫(ひっぱく)しているようだった。

そんな彼らも私達同様、人目など気にせずオーストラリアに根を下ろそうとしていたのだ。

彼らはかつて私が憧れたオークランドの出身だったが、キリーのベビーシッターを切掛けに家族同士の交流は深まり、クリスマスパーティーや誕生パーティを一緒にするようになった。

 

そして、彼らの払うベビーシッター代が、共稼ぎの出来ない私達の家計の助けになった。

息子達が「お母さん」と呼ぶのを聞いて、キリーが妻を「カーさん」と呼ぶようになった。

次男の名前は竜太だが、キリーが次男を ”アーちゃん” と呼ぶようになり、それ以来、次男のニックネームは今も ”アーちゃん” のままなのである。

 

子供が環境に馴染めず、様々なことを諦めなければならない家族があると聞く。

移住に興味はあるが、それを決断できない理由に子育ての不安を挙げる夫婦も多い。

私達は、私達の身の丈に合わせ、私達の出来る範囲で、極自然な形で子供達をオーストラリアの生活に放り込んだが、今になっても「良かったね」と言えるのは本当に幸せなことだ。