私は移住の話を誰にも相談しなかった。
もし相談すれば、私を応援してくれている人達は必ず本気で心配しただろう。
そして、私や私の家族のことを思えば、必ず反対されると思ったからだ。
逆の立場なら、私もそうしたはずだ。
全てが整い、これで問題無く出発出来るという状態になるまで、両親にさえ話さなかった。
88年9月30日(金)に課長に退社届を手渡し、その日は上を下への大騒ぎとなった。
もちろん逃げては通れない難関であり、それを断行してしまった瞬間に、私の緊張の糸は、ゆるむどころか、完全に張りつめ、ちょっとしたことでも切れそうだったのだ。
その晩に発熱、翌日は土曜日で会社は休み、扁桃腺に痛みを感じたが少し様子を見た。
土曜の晩になると、40度を超える熱にうなされ、3歳の長男の世話を妻の両親に頼んだ。
そして日曜、市役所に併設された休日診療所しか見つからず、そこの医師に「扁桃腺炎」と診断され、医師から月曜朝一番で耳鼻咽喉科のある大きな病院に行くよう強く念を押された。
10月3日(月)は、月初の重要な会議があり、解熱剤を服用しながら会社に向かったが、会議の前にダウンしてしまい、会社近くの同愛記念病院に搬送され、そのまま入院となった。
高熱のため緊急オペが出来ず、身体全体を氷で冷やすという処置がなされた。
妻が7ヶ月の次男を抱えながら、着替えやら入院の用具を運んできた。
手術は数日後に行われたが無事に終了した。
もし日本を出発した直後にこのような状態になっていたらと思うと心底ゾッとする。
手術後は順調に回復したが、約3週間ほどの入院が必要だった。
会社から歩ける距離の病院だったため、毎日20名以上が見舞いに寄ってくれた。
良いこともあり、入院中に仕事の引継ぎなどを全て終えることが出来た。
すでに会社に退社願いを提出してしまった後だったが、数多くの先輩や後輩が病室に見舞いに訪れ、慰留を求める言葉も多く、それには頭が下がる思いだった。
とにかく、今は肉体的、精神的な充実に集中すべき!と思うばかりだった。
退院後に退社、それからが慌ただしかった。
まずは双方の両親に報告しなければならなかった。
突然の退社、そしてオーストラリアに移住するという寝耳に水の報告は、双方の両親にとって、非常に大きなショックになるだろうと予想できた。
孫の成長が楽しみで仕方がない時期であり、そろそろ老人の域に達しようとしていた親を思うと、本当に何と切り出したら良いかが思いつかない心情だった。
特に私の父親は腎臓がんから復帰したばかりであり、実家での静養を余儀なくされていた。
それでも、何を置いても私や妻はそれを乗り越えなければならなかった。
ただ、私には親に理解させようという気持ちは無く、一方的に言い切るしか無いと思った。
結局、実家には一晩しか泊まらなかった。
久しぶりの里帰りだったが、孫2人をあやしながら、私と話すのを避けようとする父の痩せこけた顔や体が悲しくて、正直一晩しか泊まれなかったのだ。
自分勝手と思われるかもしれない。
ただ、この期に及んで私自身の心が後ろ向きになることだけは避けたかったのだ。
私の決断を聞いた父の言葉を私は一生忘れないだろう。
「俺の今の状態を知った上で、それを乗り越えて行こうとするなら本気なんだろう、頑張れ!」
妻の両親には、義父の誕生日が11月3日で、その日に誕生祝に出掛け、共に一杯やりながら、多少気分が良くなった頃に切り出した。
両親とも多くを語らなかったが、自分達が決めたのなら頑張れと励ますだけだった。
義父は、帰り掛けに「ちょっとショックな誕生日プレゼントだったな」と苦笑いを見せた。
兄妹や親しい友人、先輩や後輩にも打ち明けることはせず、出発の挨拶さえしなかった。
とにかく、自分自身の決断がブレることだけは避けたかった。
それもあって、私の出発日を12月22日と決め、航空券を購入してしまった。
まず、私一人が単身で出発し、シドニーで生活を開始し、家族が生活できる準備が出来たら、妻と息子達が到着するという手順を決めた。
12月22日、成田空港から私は出発した。
妻と息子2人の他に、私の母、妻の両親が見送りに来た。
父とは報告に行った晩に会っただけの出発となった。
つづく