早口で話す男性の声が電話口から響いてきた。

論文指導ができるかという問い合わせだ。

「講師は大学を卒業してるよね」

「ええ、もちろんです」

「大学院は出ているのか」

「出ている者もおりますし、現在博士課程で論文を書いている者、修士課程で勉強している者もおりますが」

「何大学だ」

「は?」

「こっちが頼みたいのは東大卒か最低でも一橋大卒だよ。早稲田や慶応みたいな三流大学じゃ話にならない」

「え?それは一般的な日本人の認識とは違うと思いますが…」

「それは日本人がバカだからだよ。東大か一ツ橋じゃないと指導なんてできない」

「だったら東大の大学院生にアルバイトで頼むのがいいと思いますよ」

「それができればあんたんとこに電話してないよ」

「でも、東大の大学院を卒業している講師は残念ながらおりませんので」

「だったら探せよ。明日までだ。カネなら払うって言ってるだろ」

とても流暢な日本語で、まくしたててくる。

でも、どうしてこんな話し方を学んでしまったんだろう。

別に外国人はお上品な日本語しか学んじゃいけないというつもりはない。

だが、こんな話し方と考え方をしていては…。

日本で受け入れられなかったら、日本語で博士論文を書く意味はあるのだろうか。

Iさんはアメリカで心理学の博士号を取った才媛だ。だんな様の赴任で一緒に日本に来て、日本語の勉強に燃えていた。

教科書をいくつか見せたときにもローマ字版を押しのけて「かな版」を希望した。「強制的にでも使わないと覚えないでしょ」と言いながら。

そのやる気が嬉しかった。頭もいいから平仮名もすぐ覚えるだろうと期待もしていた。


それから半年。Iさんのレッスンを担当している講師が質問してきた。「ご自分でかな版の教科書を選んだんですが、最近になってローマ字の教科書がいいって言い出したんですよ。追加で買っても予算は大丈夫でしょうか」

同じアルファベットが使えるスペイン語などのヨーロッパ言語を外国語や第二言語として学んだ経験のある人たちが見積もる日本語習得への甘さが原因だろうか。

予算の問題はないけれど、ここでもう少し踏ん張ってほしいなあと思う。

大きな窓から東京タワーが真近に見えるリビングルームで、Y氏は機関銃のような速口英語で不満をぶちまけた。

「3年も5年もかけてやっと話せるようになるやり方じゃ意味がないんだよ」

「この教科書を使って30回ぐらいレッスンしたけど、何ひとつ意味のあることが話せるようになりゃしない」

「もうウンザリだ」

「『私は会社員です』って言えたからって何になる。そんなことよりタクシーにのって自宅までの行き方を説明したいんだよ」

「娘の幼稚園に行って先生に『こんにちは』しか言えない。大人として丁寧な表現も使ってきちんと話がしたい」

「まわりが思ってるよりもずっと聞き取れている。日本人はこっちが習うよりもずっと複雑な言い方をしている。自分だってそういう言い方をしたいんだ」


アメリカの有名大学でMBAを取得して仕事の上でもやり手のY氏、日本語でコミュニケーションを取ろうとした途端に幼児なみになってしまう(そのように扱われる)ことに苛立ちを覚えている。


その場その場で必要な表現や会話を習いたい。積み上げ方式にはウンザリということらしい。

その苛立ちは分かるけれど…。situational functional日本語でレッスンを組み立てていこうか。