つれづれに思う。

 

ある映画で、小説を書くための訓練の一つとして「見えないものを見つづけなさい」と言っていた。見えないからといって存在しないことはない。

 

空のコップのなかには何もないわけではない。空気で満たされているから、仮に水を並々と入れれば空気は全て押し出されてしまう。何かが入れば何かが押し出されるわけで、「無」という状態ではない。

 

その映画でもう一つ人生訓として「扉が閉じれば別の扉が開く」ともいっていたが、作用があれば反作用があるのが自然の道理であろう。ちなみに仏典に説かれる「空」も「無」の意味ではない。インド的にいえば「ゼロ」である。

 

「無」から「有」が生じることはなく、有が生じるということは「無」に見えても、そこには何かが存在しているということであろう。人もまた同じく無能な人はいない。誰の目にもそう見えたとしても、必ず人それぞれに能は有る。

 

小説家にならずとも、見えないものを見つづける努力は大切である。たとえ目の前の扉が閉じて、自身を嫌いに思えるようなときも、けして「無」になろうとはせず、みえない自らの「能」への慈しみで心を満たせば必ず、能は姿を現してくるに違いない。

 

見えない心のままに「無」を求めれば、得たいの知れないもので心が満たされることになり兼ねない。しっかりとみないままに受け入れて、善いものが入ってくるためしはない。

みえない自身の「能」を慈しみ、みつづけようとすることは同じく、他のみえない「能」を慈しみ、みつづけようとすることである。

 

そうすれば、どこか思わぬところで別の扉が開くものである。

感情にまかせた怒号が飛び交う。

問答無用の行使が目に余る。

一体、世界はどこへ向かいつつあるのか。

不安を払拭できる力あるリーダーがいない。

「明日、世界に何が起こるか?」

誰も示すことはできず、誰もが疑心暗鬼のなかにある。

そんなとき、心にとめた言葉がある。

 

私は、いつも思うのだ。

涙も涸れるような、残酷な歴史さえも、沖縄の民衆から歌と舞を奪うことは、絶対にできなかった。生きて、生きて、生き抜いて、生命の底から、歌わずにはいられない、そして舞わずにはいられない人間の光彩!

この民衆の乱舞こそ、戦争の暴風に打ち勝つ、文化の力であり、平和の力である。それは、権力の魔性の侵食を打破する生命の勝ちどきだ。

そこにこそ、民衆の平和の「実像」がある。

 

不安に苛まれ、悲嘆の内にくれるのも人間なら、

「私はこう思うのだ」と力強く、未来に希望を示し、

人々を安心立命の境地に導けるのも人間なのである。

つれづれに思う。

 

「ひたむきに生きる青き友よ/さあ! こちらへきたまえ/君の

ために半座を分かとう」とは、好きな詩の一節である。

 

つい先日、釈尊のエピソードを読んだ。悩みを抱えて森をさまよう青年と出会った釈尊は、「若者よ、ここに悩みはないのだ。さあ、ここに来て、座りなさい」と声を掛けて、座っていた敷物の半座を分けて青年に座らせた、という内容だった。

 

好きな詩の一節は、この釈尊のエピソードが元になっているのかもしれない。知り合いか、偶々か、シチュエーションは色々とあろうが、高齢社会とはいえ誰の隣にも青年はいるものだ。

爛漫と咲き薫った桜花もすでにハラハラと静心なく散りゆくが、その花見の下で自らの半座を分かちて、「悩みのない」話ができたであろうか。その人は幸せである。若き日に、そんな経験を何度となく持てた僕は幸せである。

 

ただそんな幸せに安住することなく、僕も半座を分かてる人にならなければと思う。全ての苦しみを引き受ける覚悟ができれば「ここに悩みはない」と、半座を分けて心ゆく話ができるであろう。