先日、ハイデルベルグ・ジャパンのアイネクスト・フォーラムに参加し、「メーカーズシャツ鎌倉」の本社を訪ねた。社長の貞末民子さんにご対応いただき、創業から今日までのあらましを駆け足でお話いただいた。TVや雑誌にも取り上げられたとのことで途中、そのVTRを観せていただいたが、やはご本人から間近で聞く話し以上に(失礼な言い方だが)おもしろいものはない。
 その観終わったあと、「あれはTV局の意向に沿ったもので、話し半分に聞いてください」と苦笑されていた。「メーカーズシャツ」は、長年アパレル企業で勤めてこられたご主人の良雄さんが温めてきたアイデアだという。オーダーメイドに近い品質の規格品シャツである。
 われわれのフィールドでいえば、オリジナル・スタンダードボトルとなろうか。ゆえに良雄さんの中で、スタイルもビジネスモデルもすでに決まっていたわけである。ただ社名には、鎌倉生まれで鎌倉育ちの民子さんの思いが留められた。
 「今にして思えば」ともなるのか。思いはともかく、鎌倉シャツはメーカーではない。つまり“メーカーズシャツ”だけでは、企業アイデンティティとはなりにくい。現に今ではシャツだけでなく、ジャケットやネクタイ、ベルトなど品ぞろえを広げている。
 やはり「鎌倉」の名称は、無ければならない。鎌倉シャツという特徴をイメージできる人は少ないと思うが、逆にいえば、生粋の鎌倉人の民子さんがプロデュースするものがすべて(意識しようとしまいと)「鎌倉」ブランドとなるのである。それはまねしようとしてできるものではない。まさしく個性の強みだ。
 良雄さんは家計を担うためにサラリーマンをつづけ、民子さんに社長業を託したようだ。もちろん苦労はあったであろうが、そのあとの事業展開も不思議と人にめぐまれた話しを聞くと、「これをやりなさい」と天に背負わされたのであろう。
人生は不思議。何事にも「時」がある。
(小学校)卒業以来、ようやく担任先生を訪ねることができた。
学業だけでなく生き方や考え方、努力の方法や歓び、
様々なことを教えていただいた先生であった。
人生の最初の転機といえるかもしれない。
一人でも、善い先生(教師)と会えることは幸せである。
その意味では、年代ごとに善い先生に出会えたと感ずる。
その中でも、やはり大きな影響を受けたのがこの先生である。
心から離れたことはなく、いつかお会いしたいと思いながら、
ついつい今日まで礼を失してきたわけだ。
だが、再会の機会を得て思うことは、
この「時」でなければならない、ということである。
理由があるわけでないが、確かにそう思う。
もう一つで80歳になろうとする先生は、
想像以上に若々しく、当時の面影をはっきりと止めていた。
昔も今も、子どもたちの成長と未来を気にかけている。
リタイア後の「足跡をみせたい」との先生は楽しそうで、
草木を相手に、子どもたちの未来を見ているのだろう。
昼食をご馳走になりながら、緑の庭をみつつ
「私はヤマボウシが好きなんよ」と、
新緑の葉に真っ白い花を控えめに咲かせるヤマボウシは、
先生の姿に似ているともいえる。
ヤマボウシ/青葉に映ゆる/白き君(はな)
先生は教育の基盤は「命」と「自然」だという。
それが“ふるさと”だとも。
「コンクリートの東京で大丈夫か」といい、
「離れてみないとふるさとの良さは分からんかもしれん」とも。
当時、先生が色々な読みものをわら半紙にガリ版刷りして
それをみんなで輪読していた。
「それの一話一話を教室に貼っていたのを憶えているか」と
いわれて、確かにそんな記憶が蘇ってきた。
その30cmほどの高さになる、そのわら半紙は今も手もとにある。
今回、それらをまとめて小冊子にしたものを2つ下さった。
「子どもはもう遅かろうから、孫と読みなさい」と。
今の教育を、政治を、社会を真剣に愁いていた。
当時もきっと、そうだったのだろう。
考えてみれば当時の先生は四十代で、私も今その年代となった。
正確にいえば、当時先生は(たぶん)41~42歳で、
私は先生の歳を6~7歳ほど超えたことになる。
一緒に昼食をしながら、何度となく先生は
「今日は話しができて楽しい」と言っていた。
色々と聞きたいこともあったが、先生の話を聞くうちに、
それらは大したことではないと思えた。
大事なことは「先生、子どもたちの未来は心配いりません」と、
自信をもっていえるような自分になることだ。
先生の教えに背かず、何があってもそれを抱いて、
誇りを持って生きることである。
自らの育む草木の足跡を案内してもらいながら、
言葉以上の何かを先生は背中で語ってくれた気がする。

 新緑の/匂い立つ里/師の心

 子ら思う/心は今も/熱き人
  草木育む/大地と生きなむ
口永良部島の噴火や小笠原地震の最中となりましたが、
卒業以来となる原岡先生を訪ねることができました。

それまでの電話の声だとだいぶお歳を召された感じで、
面影が薄れていることも心配されましたが、
家の入口まで出迎えいただいた姿を拝し、
「あぁ、あの頃のままだ」と変わらない姿に懐かしさもましました。

当日は雨の予報で、少し前に先生から電話があり、
「少しでも早く来れないないか。心配じゃから」と。
またひとみちゃんの車で行くことになっていたので、
「早くといっても、下畑さんも化粧があるからなぁ~」と。
微に入り細に入り心配をいただきました。
雨といっても、結果的には“雨土くれを砕かず”といった慈雨でした。

近くのおいしいそば屋さんに連れていっていただき、
「東京と変わらんじゃろ」と、確かに見た目も味も一流でした。
食事をしながら色々なお話を聞くことができ、
時折り庭の草木をみながら、
「宝坂くんは東京のコンクリートで生きてけるのか」と。
「先生、東京は案外に緑が多いんですよ」といいますと、
「窓からは見えんじゃろ」と。

先生は「山法師」の白い花が好きとのことで、
庭にも植えておりました。そこで一句。

 ヤマボウシ 青葉に映ゆる 白き君(はな)

とにかく、話しの端々に今も昔も子どもたちのことを思う
心が熱く表れていました。
その思いを今は草木を育てることに注がれているようです。
「君たちに私の足跡をみせたい」と、
先生の家の小さな里山を3人で、ぐるりとめぐりました。
まさしく慈雨であったと思います。

 親思う 心にまさる 親心 とありますが、
 師を思う 心にまさる 師の心、です。

今度はみんなでうかがいたいものです。