よき先輩、よき友人を持つことである。
そして、何でも、心おきなく相談してくことだ。
よき人と離れてしまってはいけない。
一人で問題を抱えたり、
自分勝手になって、道を間違えてはいけない
悪友に染まれば、自分も悪へと堕ちていく。
善友に縁すれば、自分も善の方向へ伸びていくことができる。

「なるほど」その通りだと思う。
歳を重ねるほどによき先輩は減っていく、
耳に痛い忠言も聞けなくなってくる。
「忠言耳に逆らう」というが、無ければ寂しいものである。
また忠言として聞かずば、善き人は段だと身から遠ざかる。

私の知る後輩はしっかりとした人も多いが、少し心配なのは、
身近に何でも相談できるよき先輩がいるのかな、ということ。
よき友とよき先輩とはだいぶ違うものだ。
どちらもいる人は幸せで、
それは心に安全地帯を沢山もっているようなもの。
山をひとつずつ越えゆくと、段々と環境は厳しくなってくる。
段々と己の弱さを向き合わざるを得なくなる。
いわゆる孤高になってゆく、厳しさであろうか。
「この辺で」と思う気持ちもあるが、その先の魅力というか、
自身に潜在する力の限りを知りたいとも思う。
そうした心境からか、タイトルに魅かれて新田次郎著の
「孤高の人」を読んでみたら、今度は本当の山に行きたくなる。
まぁ、それはしばらく置くとするが、

今年4月に地域町会で新役(住民交流推進部)が設置され、
その責任者に就任した。
というよりは、私の役ために設けてくれたもので責任は重い。
よって毎月開催される町会の役員会に出席し、
他の役員の方に頼まれて、書記(議事録作成)を引き受けた。
役員会が定例となったのもここ一年くらいらしいが、
議事録を作成して保存するのは初めてとなる。

この役を引く受けようと思ったのも、実は今年6月でマンションの
理事長職を無事に終えることができたからだ。
もう一年は補佐役(監事)として来年6月まで残るのだが、
まぁだいぶ解放されることになるからである。
(高校の)同窓会につづき、マンション理事長、
そして今度は町会の部長職である。
肩書は責任はもとより、改革の御旗と昔から思ってきた。
私の主な役割は、新住民やマンション世帯と町会との垣根を
低くして理解を進め、むしろ主体的に町会運営にかかわって
もらうことである。

まずは8/31に町会内にある深川スポーツセンターの体育館を
貸し切って、スポーツ交流を図る予定である。
そのための意見交換会を毎月一回開催してきた。
国会ではなくても、意見は様々でまとめるのはむずかしい。
ただ「スポーツ交流との名称では参加のハードルが高い」との
意見があり、今回は「体育館開放デー」とした。
とはいえ運営上、卓球とバトミントンとバレーの3種に絞った。
まぁ、どうなるか。最後は私の心一つかな。

来月は町会の盆踊り大会があり、その打ち合わせと準備にも
かかわっている。
町内の寺院敷地を借りての、まぁまぁの規模での開催である。
準備に来られた方は職人ぽい人が多かったが、毎年のことで
慣れもあろうから、段取りはないに等しい。それにしても、
みなよく働く、とくに臨時で駆り出されたお母さん(地域部)
方はよく働く。みな日焼けしたに違いない。

休憩中に日陰で立ち話した人が、こんなことをいっていた。
「段取りが悪いでしょ。こんな感じでみんなでタラタラとやるのがいいんですよね。毎年変わりません」と。
私も、そんな楽しみ方があることは知っている。
ただ、それも毎年同じ人がやっているから可能であって、
新しい人の参加や引継ぎを考えると心もとない。
少なくても、資料は残さなければならないと思う。
だいたい流れと課題は、今回の準備でみえたので、
今日は要所要所を記録として写真に収めてみた。

どこも同じであろうが、関わればかかわるほど課題は見える。
一つ終わればまた一つと出てくるが、すぐにできることでも、
「信頼」がなければ始めることはできない。
信頼はある意味でともに過ごす時間と汗である。
登山行でいうパーティーと同じである。
私も反省しきりだが、一つの議論が白熱してくるといつしか
周囲も当人たちも議論ための議論になっていく傾向にある。
しかもリベートのように、賛否がはっきりと分かれると、
さらに議論は熱を帯びて、
気がつけば思わぬ方向に進んでいることもある。
理性は大事だが、とかく人は感情の生物である。

ある識者が、民主主義とは多数決ではなく、
少数派の意見にも耳を傾け、善いものは取り入れていくこと、
そんな主旨の話をされていた。
それが望ましいことであるのは誰でも分かることだが、
それがなかなかできないところが悩ましい。
物事は案外に理性では動かず、感情が動かしてゆくものだ。
「民主主義」とは何か。その仕組みを幾ら声高に叫んでも、
それを実践する人があってはじめて機能する。
要は「人」である。善悪は別としてギリシャの例もある。

ひとり一人のエゴが克服されずして、民主主義もない。
熱を帯びない議論はおもしろくなく、議論の熱のなかにあって
ときおり(何のための議論か)原点に立ち返る平静さを、
心のどこかに持っていなければならない。
何事においても、けして答えは一つではなく、
結論を導くためには、必ずどこかで妥協が必要である。
「政治は妥協の技術」といった人もいたようだ。

ふっとわれに返らされるひと言である。