今年は例年になく東奔西走の年となりました。
まだ1か月半ほど残しますが、まずは健康を害することなく、
思いのままにやり切れたことが幸いです。
ただ逆に定期的に合せていた顔ぶりに会えないことや、
その場所へ行く機会を削がれたことは残念ですが、
それも時(年)折々のこととだと思い、
長い目で見ることを学ばねばなりません。

それでも内外にわたり書くことは、欠かすことなく、
多少のことはありますが、まずまず前進できたかと思います。
毎月開催される会報への投稿となっている200文字も、
200文字ゆえのむずかしさもありますが、
200文字を死守してきたわけです。
ただ今回はどうしても201文字となり、
いや今回は「201文字でも善いのでは」との思いが自然に湧き、
ご迷惑を省みず、一文字の重みを感じつつそのまま送りました。
なぜ、そう思ったのか。以下、感じてみてください。


物事は複雑で多様だ。だからシンプルに捉える必要はあるが、現実の処理は単純ではない。そこに忍耐と執念、粘り強さが不可欠である。ハンバーガーやサンドイッチは「ファーストフード」を代表する。いずれもパンで具材をギュッと挟むが、アジアの饅頭は違う。饅頭もおにぎりも具材をふんわりと包む。その違いは何か。挟むのは圧力で、包むのは愛である。それは包まれる者の善き変化を待つ忍耐の愛だ。今こそその愛で世界を包みたい。
先日、ハイデルベルグが運営するアイネクト・フォーラムに
参加させていただいた。飲食業界の事情には疎く、視野を広げる目的で、エー・ピーカンパニー取締役副社長の大久保伸隆氏の講演を聴かせていただいた。

「塚田農場」には、お世話になっている人もいるかもしれない。
おいしさと値ごろ感が流行っている主因ではあろうが、
人の心をくすぐる色々とユニークな挑戦をしているようだ。
お客向けの、出世魚ならぬ出世名刺(来店回数により昇進)や、
社内向けの「熱闘甲子園」「総選挙」など、ある種のゲーム感覚のようなスピードと手軽さが人の心をとらえているのであろう。

ただ、講師の大久保氏は物事を表層的に理解せず、時間をかけて
背景に深く迫ろうとする思考で、そこが人に先んじたエネルギーの源泉のようだ。
アルバイトはもちろんだが、経営陣も若く挑戦的にかつ、一面では社会とのかかわりにも心寄せており、非常に共感できた。
また本質的な問題に直面するのはこれからであろうが、
それを乗り越えて成長をつづけてもらいたいと思う。

SNSなどのインフラの力が大きいと思われるが、すでに事業をスタートさせるのに、それほど大きな障壁はなくなりつつある。
もちろんこれまでの「事業」といったイメージや概念ではなく、
身の丈や自らの個性を知り、そして何よりも社会とのかかわりを
模索すれば起業のハードルは低い。
もはや規模の勝負ではなく、知恵の勝負の時代に入ったように感じられる。知恵と熱情があればできないことはない。
ただ持続には人との善き結びつきが不可欠である。

大久保氏の表情が少し曇っていたのが気になるが、矛盾を乗り越えて心広げていけば、新たな地平が拓けるものである。
どんな優れた手法やアイデアがあっても、飲食の原点は安全と安心、そしておいしさにある。
食が命を継ぐ糧であるとの大事さを伝えてゆく企業となってほしい。「美」とは大きな羊と書くが、まるまる肥えた大きな羊が美しいのは、命をいただくという感謝の念によるからだ。

余談だが、大久保氏が最初に問題提起した「不満が1ミリもない」との言葉が今も気にかかっている。
不満を計るメジャーがミリとはどういうことだろうか。
それとも世代の違いによる表現差であろうか。
職業柄の悪いクセである。

一度「塚田農場」に行ってみようと思う。
ラベルは包装の一部といえるものだが、
今夏にコカコーラが中東で発売した缶入り「コカコーラ」には、
ラベルではなくダイレクト印刷で、
「ラベルは缶につけるもので、人を評価するために使う
 ものではない」というフレーズが記されていた。
これは、人間の差別をいさめる目的で製作されたものである。

善悪はどうあれ、人にレッテル(ラベル)を貼ってはならない。
レッテルを貼るということは、自らの思考をストップさせ、
相手を知るという努力を放棄することである。
自分の都合を相手に押し付けることである。

歴史上の最悪のレッテルは「敵国」と貼る戦争である。
他国を例にとらずとも「鬼畜米英」とのレッテルを貼って、
戦った歴史を知らない人はいまい。

もしたとえ意見を異にする、敵国同士であったとしても、
その顔を知り、生い立ちを知り、性格を知り、両親を知り、
人生の一部をともに過ごしたとなれば、
簡単に、その相手を「敵」だとして非難したり、侮蔑したり、
引き金を引いたりできるだろうか。

だが、その相手のことを何も知らず、知ろうとせず、
「敵」とのレッテルを貼ってしまえば、いとも容易に
非難したり、侮蔑を浴びせたり、
引き金さえ引くことを躊躇わない。

もし、真に相手が最悪の行為に及ぼうとしていたとしても、
レッテルを貼った瞬間に、心は同じ行為に堕してしまう。
「目的は手段を正当化しない」とは、あのカンジーの言葉。

人間として愛をもって生きることが善であるならば、
たとえ心を失ってみえたとしても、どんな人も
同じ人間であることを忘れてはならない。
それは、けしてレッテルを貼らないという人として境である。

その境を越えれば、人は人ではなくなってしまう。
ミイラ取りがミイラとなってしまう瞬間である。
それは他人が判断できることではなく、自身の心の問題。

相手がどうあれ、最後の最後まで同じ人間であることを信じ、
けしてレッテルを貼らず、相手の人としての心に迫ろうとする
その努力を放棄しない。
それが私の信じる人間であり、その人の前に動かぬ心はない。
「至誠にして動かざるものは未だこれあらざるなり」。
それは、あの松陰の信念でもあった。