以前からベルリンフィルハーモニー管弦楽団と指揮者カラヤンのみを
こよなく愛する私ですが
最近は、タイトルにありますように、
「亡き王女のためのパヴァーヌ」
「弦楽のためのアダージョ」を聞かずには要られません。
一種の流行り風邪のようなもので新興宗教的なものなのでしょう。
今年前半はボレロやマーラーのアダージェットをよく聞き、
最近は亡き王女のためのパヴァーヌに言い知れない
安らぎと郷愁感と今という幸せの認識を感じ、
あー夏が来たのか?暑い、こんなに夏って暑かったっけ?
梅雨の雨が降らないとさくらんぼの木が枯れてしまって
今までの苦労は何だったのか?と天を仰ぎ見てしまうではないか・・・
などと「今」に至るまでの様々な景色や感情を走馬灯のように振り返り
感傷に浸るには最高の曲ではないだろうかと思っています。
なぜだか この曲らを聞いていると
長野県の千曲川沿いの古めかしい錆びたトタンが外壁に見えるボロい家並みを思い出します。
今では人が住まわなくなって空き家になっているだろうと思われる家並みが
何ともさみしく、そして無常にも時間は過ぎ去り続けていることを思い知らされ
人は子どもに囲まれてにこやかに笑って暮らした人生の黄金時代を経て、
そしていつの間にやら、その子ども達は家を建て巣立ち
家には老後一人暮らしとなって久しく、その後は
主人の去った後の手入れが行き届いていない
放置された廃屋が残り続け・・・
30年前東京に住んでいた私は、何かの縁で千曲川沿いを運転した時、それを目にして
都会への人口流入、そして地方の産業衰退による人口流出と過疎を感じ
いわゆる岩手県釜石市の町並みの変化と表すと分かりやすいかも知れません。
そして昨年は、30年ぶりにその道を訪れ、
それでもあの寂しい雰囲気は相変わらずまだそこらに存在し・・・
私にとって千曲川沿いの荒廃したようにみえる家並みには息が詰まり
辺りを見ずに、ただまっすぐに行くべき道のみを視野を狭くして運転して通過してきました。
何とかならないものだろうか?と思わずには居られなくなります。
いや実際はそうじゃなく、そういった社会構造が何とかならないものだろうかと
そこの町並みを手玉に取って代表して綴っている代理感情に過ぎないのでしょう。
きっと、栃木の温泉廃墟群などのように。
日本国中にそういったさみしくなった場所は至るところにあるのでしょう。
ただ、私にとって千曲川沿いが特にそのように見えるだけかもしれません。
亡き王女のためのパヴァーヌを聞いていると
過去の賑やかだった全盛期が過ぎ去り、
言葉で表すなら「栄枯盛衰」とでも云うのでしょうか。
それは、人の生命変化と代謝更新の常なのであり、
諸行無常なのであり、
地球誕生以来の変わらぬ進化の天駆ける煌めきに過ぎないのでしょう。
しかし、なぜ人が暮らし、そして去った跡に
郷愁というノスタルジアを感じ取ってしまうのでしょうか?
嫌なことや悲しいことなどは一時すらも考えたくもない、
ただ毎日楽しいことだけ考えて生きていけば良い
そう思っているはずなのに、時折寂しさの感情が隙を見て心に侵入してきます。
それとも、心の拮抗作用なのだとばかりに、そういった風に思えてしまうのでしょうか?
またはそれらの雰囲気を敢えて拾ってしまうのでしょうか?
もしくは、心が病み始めているのでしょうか?
クラッシクとは、みなさんにとってどのように聞かれているのでしょうか?
私にとっては、芸術や絵画のようです。
見方は知らないけれども、自分にとっての景色が音符を通じて見えてきて
ある程度、歴史的背景を知り、完成までの説明書きなどを
先入観として知り得ている場合には別として
先入観の全く無い曲を聞く場合には、曲が進行していくと共に
当時の人の営みがぼんやりと見えてきて、次第にその妄想が広がり、
着ている衣装が現れ、人の会話が発生し、独り立ちして歩き始めていく。
絵画ではその動きは限定的ですが、クラッシクにはストーリーが生まれ
私の脳は勝手に曲の時間軸に合わせてシナリヲが明確化していくのです。
作者は、敢えてそのように曲の流れを作っているのかも知れませんが
本当はどのように聞けばよいのか分かりませんが
私の中ではそうやって物語が進行していきます。
妄想癖があるのかも知れませんね。
そうやってクラッシクとは、受け手が自由に想像し、
心の救い、もしくは栄養となるように仕向けられていると考えるなら
私は、その術中にまんまとハマっていると云えるのかも知れません。
よく、人は躁病やうつ病のように対極に分けることがありますが
人は、日々大極の時もあれば少極にも心は揺らいでいます。
若い人であればあるほどに茶碗に転び入れたビー玉が端を超えて行きそうな勢いで
反復して転げるように、歳をとっても勢いは衰えても少なからず心は揺れ動いています。
そのビー玉の勢いが椀の縁を超えてしまうほどに恐ろしいものではなく、
ゆっくりと椀の中を対角線ではなく、
円運動のようにゆっくりと転げて回るように感じ取れるようにしてくれる存在が
芸術という非日常であり、またクラッシックの旋律であるように思えるのです。
などと今日も唯我独尊の思考を書いてしまいました。
本日も最後までご覧いただきましてありがとうございました。
PS
自動車用のサンシェードを作ってみました。
買ったものはサンシェード4000円と金具がアマゾンで1000円
単管パイプやリングやアンカーなどは、
転がっていたさくらんぼハウスの廃材を使用したので0円でした。
合計5000円でした。
屋根の天板に紐をかける金具をネジ止めして
また、土を50cm掘って、単管パイプのアンカーを埋め込み
その上に単管パイプを2m50cmに切断して
端のほうにステンレスのリングをアーク溶接して紐を固定するリングを設置し
50cmの深さに埋めると、ちょうど出ている部分が200cmとなります。
レガシーB4の天井の高さが150cmで、私の身長が170cmですので
立ってもサンシェードが邪魔にならずにドアを開け閉じすることができます。
もしもですが、突然の気象変化で雹が降ってきても
ボディーにダメージが直接いかないようにとの配慮もあります。
何より、夏の日差しで車内が暑くなるのを抑えてくれます。
フロントガラスにアルミのシートを広げようかとも思ったのですが
サンシェードのほうが全体を冷やしてくれるので、
少し手間でしたがこのようにしてみました。
単管パイプを切る作業と溶接作業と土を掘る作業と
高所作業車を持ってきて軒天上に細工する作業で
かれこれ3時間を要しました。
真夏の炎天下の作業はなかなかに大変でしたが
完成してみると、何だか涼しげで、しかもオシャレに見えて
風が吹いてシェードがふわふわと靡いている光景を見ると
やって良かったと思えました。