食べる前に消化が始まるパラドックス | 独学の道Ⅲ

独学の道Ⅲ

自分で自分を変えることは、到底無理なことかもしれないが、それに望む気持ちの自力論は高尚で偉大である。仮にその結果が甚だ振るわなかったとしてもだ。By幸田露伴(努力論言葉より)

今日は、数ある選択肢や考え方、立場や見方がある中で、

 

無知な人間が思い描く絵空事と云う立ち位置で、付き合っていただければと思います。

 

 

仕事もなく、草刈りを少ししただけで、雨予報とお盆期間中のわナンバーや他県ナンバーが多い中で

 

バイクでツーリングや、漁港での魚釣りなどは・・・どうせどこもかしこも混むだろうから・・・

 

とパチンコ屋に出かけてみるものの、やはり無駄金を捨ててきたに過ぎず・・・

 

致し方なく家に帰ってきて、本を見開いていました。

 

 

芸術に興味はあれども、それほどまでに詳しくなく、芸術の見方や絵画の見方、

 

絵画の年表などの書籍を今年は何冊購入したのでしょうか?

 

そんな道半ばの思考の中で・・・

 

芸術とは

 
というそもそもの問いにぶつかっています。
 
 
 
まずは、その大いなる根元を探す必要があるでしょう。
 
 
ルネサンスやゴシック調やら写実表現や抽象表現、
 
そして現代絵画へと時代と共に画家がこぞって書く、というその目的は、
 
職業として金を得るということが第一の目的でしょう。
 
つまり現在で言えば芸能人やアーティストという活動の絵画版という事です、
 
昔は吟遊詩人という名称は残るもののレコードが発明されるまでは音は残りませんでしたし、
 
フィルムが普及するまでは映像も残りませんでした。
 
唯一残ったのが、顔料で描いた色褪せない絵画だった訳です。
 
 
また、同時にローマコロッセオのような建築物が、
 
素材が現代のコンクリート様式に近い作り方で造られたことによって、
 
過去の造形芸術という分野も現代でも残されていることは、本当に貴重であり、
 
先人が当時の最高傑作に命を削ったことは、造形のみならず伝わって来るようです。
 
文字、食料、金が整った文明の状態で、
 
いつの世でも金持ちは人より良いものを手に入れたくなってしまうのでしょう。
 
そこで、手のかかる細工を施したり、技巧品を飾って人を楽しませる事で、
 
装飾芸術や宝石、ドレスなどの衣装が変わり、それに習う形で
 
流行が生まれていくというような歴史が今でも続き、
 
またこれからも権威の象徴としての技巧技術の研鑽は
 
シンプルと複雑を繰り返しながら続くのでしょう。
 
 
それらの技巧や発想力という両方が伴った時、芸術物として造られ、そして、
 
視聴者はその意図を詮索する、
 
いわゆる謎解きのような楽しさも得ながら絵画が作られていく、
 
そういった今までの流れであったように思います。
 
 
とかく宗教絵画に於いては、人物とふるまいの表現は意味深部分が多く、
 
比喩や隠喩が隠されていると云った・・・
 
レトリック的側面もありました。
 
現代の心象絵画に於いては、浄土という言葉に代表されるように、
 
心の平和がその表現の背景に存在する事が多く、幽玄の世界とまでは行かなくても、
 
一時的でも安寧がある事は共通点でもあるように思います。
 
 
人が望む世界が芸術であり、哲学的理論派もあれば、
 
刹那的現実主義派もあり、また俯瞰的妄想第一主義があり
 
視聴者への、また主人公の思考への角度が違えども、集合点は同じであるという共通点が
 
芸術として認知され、需要と供給の関係
 
つまりは、依頼者と執筆者、もしくは執筆者と視聴者との利害関係において
 
芸術という枠組みが成り立っているように思いますが・・・
 
などという長らくの前置きをしつつ
 
この関係は、実はタイトルにもあるように、
 
「食べる前に消化が始まっている」というタイトルに代表されるように
 
進化しているように思います。
 
 
この関係を、同列に例えるのは如何とも思いますが、
 
芸術の進化と非常に似ているように思うのです。
 
つまりそれは、食文化です。
 
きっと大昔の人々は、動物であるが故に、肉食において生肉を食べるところから始まっており
 
それがいつしか、加熱した肉という保存文化へと発展し、
 
次第に、稲作文化と共に、野菜と云う分野によって炭水化物という脳に対する発達を促す
 
糖を食事行為から得るようになり、
 
弥生時代に格段に脳が拡大し、知的向上が進んだのではないだろうか?と思うのです。
 
肉は、タンパク質、そして穀物は炭水化物という事で、
 
さらにより糖の吸収をある意味での効率を良くする意味で、野菜も食べられるようになり
 
栄養のトライアングルが形成されるようになると、思考発達の時間が増え
 
文字、文明などと云う地域性が生まれて、文明の発展をしたように思います。
 
実はこの発展の中に、さまざまな要素があり、香辛料としての野菜であったり
 
塩や味噌、発酵食品と云う様々な元素抽出技術を使用して、調理方法が変わってきて
 
今では、登山の時には

 

 

、明治生まれの登山家でもあり執筆家でもあった加藤文太郎が
 
乾燥した甘納豆700gで冬期登山時に、多めに摂取すると
 
いくら雪が降っている場所で寝ても凍死しない・・
 
という事を報告するなどして登山界が躍進した記憶に新しいのですが
 
現在では、その要素は糖質とカロリーであることが判明し
 
登山時には、コカ・コーラが疲労回復の標準となり、アクエリアスやポカリスエットなどの
 
塩分を摂取するよりも、熱中症には糖質が有効であることが分かってきました。
 
 
未だ、学校などの教育現場では「水を飲め」とばかり広まっていますが、
 
水を飲むほどに血液濃度が薄まって
 
水毒症という名の、赤血球が薄まって細胞に酸素が行き渡らない崩血症で
 
細胞崩壊が発生し、子供が死ぬことを誰もが知りません。
 
水は一日に700mlから1.5Lが標準であり、2Lを超えると精神疾患に該当します。
 
誰が水を飲めと間違った情報を広めたのでしょうか?
 
 
また、同時に、人間の長寿と退化は栄養の取り方にあり、歯を使う食事をすることで
 
嚥下障害を予防したり、また認知症や逆流性食道炎を防ぐことが出来ます。
 
 
しかし、最近ではありがたいことに、流動食と云う名の噛まない栄養素が存在し
 
同時に、ラーメンなどのように噛まずに、またはソフトクリームやジュースなどのように
 
飲み込むだけで栄養素の60%が吸収できる食品が当たり前に存在しており
 
糖尿病が心配されています。
 
人間は、加熱したり、切り揃えたりして事前調理し、その上で噛んで咀嚼・嚥下を行って
 
消化をすることが当たり前だったのは、昭和の頃までで、今では
 
カロリーメイトはまだしも、糖分飴や塩分飴、微量元素タブレットや
 
一日に必要な栄養素が全部入りのジュースまで存在し
 
もはや、消化するという概念が一足飛びになってしまっています。
 
つまりこれは、まさに食品側が消化と云うプロセスを飛ばして商品化して販売しているという事です。
 
 
野菜は噛んで食べると吸収率は30%ほどですが
 
ジュースにすると60%の吸収率があるとされます。
 
ポカリスエットなどは、胃腸に負担を掛けずにイオン水が身体に浸透するように作られており
 
もはや消化吸収するプロセスは必要ありません。
 
 
ある意味で準点滴のようなものでしょう。
食品でも、現代は五臓六腑の腑の機能を無視したパラドックスが起こり得ているのです。
 
 
同様に、芸術も以前は必要に応じて、求められた表現でしたが、これからは逆で
 
人間側がそれに気づく必要があるという逆転現象が起こっているように思います。
 
 
例えて云うならば、ノイズが気になる青空に飛行機が飛んでいるという写真を観ますが
 
実は画角を引いてみると、敢えて望遠レンズでトリミングをしていたことが分かり、
 
そのことを、視聴者にわざと知って欲しいが為のノイズというモザイク画チックな表現を行う事は
 
本来写真家が、
 
ノイズを減らすべくISO感度を100で、なるべくノイズが乗らないように撮影するという
 
基本原則に逆行するかのような手法であり、
 
これもまた、直近現代の逆説的写実表現方法のように思います。
 
 
偽装結婚によって、生活保護費をむしり取ろうとする考えは、昔は逆だったように思います。
 
知的水準が低く、生き辛さが故に、結果的に本当に困窮した挙句に
 
生活保護を受給しなければならなかった状況が
 
現代では、悪質な性悪説に基づいた蛮行が日本国中で正当化されつつある現代では
 
まさに消化のプロセスと似たように、私の目には映ります。
 
 
今の人は、当たり前と思うかもしれません。
 
生活保護を受給するのに、条件を調べて該当する状況になってから市役所に申し込みに行きますが
 
本来の目的は、違ったはずだったでしょう。
 
 
国民としての最低の暮らしの保障という定義だったはずが、いつしかそれは、性悪説によって
 
条件や基準をクリアしないと受給できない権利となってしまいました。
 
 
僅か100年前の戦前生まれの人の時代に、消化する前に消化する食べ物が出来るなんて
 
想像がついたでしょうか?
 
 
今では、誰しもが当たり前の糖質何g、タンパク質何g、微量元素μmgなどと云うように
 
設計された、消化を必要としない、一日の最小単位となって販売しています。
 
 
今後パソコンも、AI搭載CPUやディープラーニングAI搭載のWINDOWS
 
とAI搭載アップルの競争に入るでしょう。
 
スマホも同様に追いかけて、AIが当たり前であり、スマホが当たり前のように
 
擬人化したAIがスマホやWINDOWSに搭載されて、
 
いつもユーザーと対話形式でChatGPTのようなコミニケーション形式でプロセスを行い、
 
そして、いずれはAIと結婚する人も出てくると考えられます。
 
 
AIはバージョンアップを繰り返しながら、個人志向の学習と未来予測を行って、
 
人間の便利を先取って用意周到に準備していることでしょう。
 
例えるなら、睡眠時間を計算してエアコン温度を調節したり、
 
瞬きの回数によって疲労度を測定し、自動車の自動運転の速度を変更したり、
 
帰る前には自宅のエアコンを起動して
 
帰宅時にちょうど良い温度にしておくなど、
 
事前予測による未来の先取りが生活に訪れるように思います。
 
つまりこれは、疑似未来とのお付き合いが始まることを意味しており、
 
消化が始まる前に消化している状態が、食品だけでなく
 
職業的にも、当たり前になることを意味するでしょう。
 
 
 
キリスト教と云う宗教は、親はいないと説きます。
 
産んでくれた親は代理親であり、親もまた完璧な存在などではなく、
 
世の中の修行中の身なのだから、間違っていたとしても親を責めてはいけません。
 
神と云う存在は、道しるべであり、親が道しるべではなく、未来を先取って感謝申し上げる。
 
それが愛であると教えていると私は認識しています。
 
 
宗教が廃れない理由の一つに戦争があり、親を失った子供は、
 
どうやって生きて行けば良い人間に成長できるのでしょうか?
 
恨みや妬み、復讐心では決して未来に感謝など在りはしないでしょう。
 
戦争がある限り、宗教概念は無くなることはないと私は思います。
 
 
そんな、欠損した心の部分や感情を穴埋めするのに必要なのは、空想力であり
 
未来への希望であり、・・・
 
その時にたまたまイエスキリストやマリア像というものがあったに過ぎず
 
私は、戦争で失ったものが多い時代ほど、宗教色が強い芸術表現が出現しているように思います。
 
 
逆に平和な時代が続くほどに、芸術は技術と云う分野を超えて、
 
哲学的主張や意味合いの色が濃くなっていくように思います。
 
 
また、AI生成画像が盛んになってきた今、おそらくは
 
アニメ化現象が起こってきて、
 
アニメスパイファミリーのアーニャ・フォージャーというキャラクターや
 
ヨル・フォージャーのキャラクターを真似するべく、コスプレを行っていることと思います。
 
これらに見るように、AIで生成画像された表現が、リアルな現実世界で模写されるといった
 
いわゆる宗教表現のような信仰心が芽生えて、勢力を増していくようにも思います。
 
 
そんなことが気になり始めて、一体芸術とは何なんだという風に思い始めて
 
先日書籍をまたまた注文してしまいました。笑い泣き
 
 

マルティンハイデッカーの芸術作品の根源

 

もう一つは、内田樹の街場の芸術論

 

 

 

という二冊で、これらを読めば、また考え方が変わるかもしれません。爆  笑

 

 

最近、カメラ業界の中で、キャノンとソニーの違いをとてもよく感じます。

 

キャノンで撮影した写真や動画は、どれも線があるのです。

 

ミレールノアールのように

 

シルエットがしっかりしていて、見る人にメリハリがあって美しいと感じさせます。

 

いわゆる線の技巧と表現したらよいでしょうか?

 

 

対して、ソニーのカメラには線が感じられません。

 

つまりモネのような心象風景や絵師伊藤若冲のような線のない表現

 

もしくは、ルドンのような黒と色彩の世界を撮影するように

 

敢えて仕向けられているようにも思います。うーん

 

 

それを、若い人はキレイだと表現します。

 

カメラと云う写実表現の最たるもので、この違いは大きな違いであるように思います。上差し

 

 

そんなことで、今日は暇だったので

 

芸術について、ある一つの方向性からの思いを馳せてみました。

 

 

本日も、最後までご覧いただきましてありがとうございました。