神を調べる | 独学の道Ⅲ

独学の道Ⅲ

自分で自分を変えることは、到底無理なことかもしれないが、それに望む気持ちの自力論は高尚で偉大である。仮にその結果が甚だ振るわなかったとしてもだ。By幸田露伴(努力論言葉より)

本日はメンドイので閲覧注意

 

------------- Caution -------------

 

 

紀元前16世紀頃の中国大陸殷王朝時代に亀の甲羅の割れる形から

 

現象を読み解いて記録するというト辞に意味を見出して

 

記録された最古の文字である甲骨文字を始祖として調べ、

 

その後の紀元前1300年~紀元後219年までの金文文字で甲骨文字の経緯と意味を分解して紐解き

 

それらから現在日本で使用されている常用漢字の歴史的意味を解説している

 

「白川静」さんの常用字解を開いて

 

「神」という言葉を見てみると

 

形声という意味を表す部分と音を表す部分とを組み合わせて文字が作られるのだが

 

その音符を表す部分は「申」と書き、

 

稲妻の形を「申」と表し、天にある神の威光の表れと考えられていたので

 

金文文字では申を「かみ」の意味に用いられていたのだが、

 

のちに、申が「もうす」などの意味に用いられるようになった為に

 

神を祭る時に使う机である祭卓の形の「示」を限定府(偏・旁などの部首)として使用し、

 

「神」の字に変わったという経緯がある。

 

 

神とは、もともと自然の事物や力を崇拝する自然神であったのだが、

 

金文によると祖先の霊をも含み、神として祭るようになっている。

 

のちの神の意味は、こころや心の働き、若しくは心の働きの優れたものも含めて

 

意味するように用いられて使用されている。

 

 

東洋医学の体系では、その心の働きを「精」として分け

 

また五臓六腑に対応させている。

 

魂・神・意智・魄・精志

 

魂とは、分解してみると、偏の「云」とは雲の元の字を表し、

 

鬼とは人の死んで霊となって霊界にあるものを意味し、心の意味にも使われる。

 

つまり見えない心の自由奔放な働きを意味し

 

これに対して、魄とは、

 

実は死んで骨と云う形骸となってその姿が残ることを意味しているので

 

見える形の身体やたましいを表す。

 

 

 
 
 
 

 

話は戻るが

 

意智とは、それだけの単語は辞典を開いてみても見当たらず、

 

それが故に、意と智をそれぞれに組み合わせてみたいと思う。

 

意とは、仏教で云う所の六根の一つであり、心の働きを表し、

 

それは、私事の物事に込められている「思い」や「訳」によって、

 

それぞれに働く心の動きを表す。

 

また智とは、物事を良く知り、わきまえていることや、

 

理解し判断する力を表し、同じく意智と一言で表しても、

 

それは千差万別であることが分かる。

 

例えるなら、中国共産党に日本人は悪の権化であり、

 

憎むべき存在などと教えられたらどうだろうか?

 

犬は食べ物であり、決してペットなどではないなどと認知していたらどうだろうか?

 

それらのように意智とは、生まれ育った環境や生い立ちに起因する心の動きであり

 

千差万別で人は、相手のそれを見ることはできない。

 

 

精志の精とは、神に供える為の米や麦などの優れたものを選ぶ行為を表し

 

清い・美しい・詳しい、優れたものなどの意味を表し、

 

志とは、元は「士」という原型の「之」と云う形を表し、

 

之が行くの意味を持つ。

 

心がある方向を目指して行くことを「志し」と表すようになった。

 

つまりは、優れた方向へと心を傾けて目指して行くと云った意味になるだろうか?

 

 

 

さて、それらを踏まえて、

 

1613年に朝鮮半島のホ・ジュンが東医宝鑑を完成させて刊行した

 

2009年世界遺産に認定された内容のものを開いてみると

 

精は身体の根本であり、神は気の主であり、形は神の家であると表している。

 

 

ゆえに、あまり神を使うと息が止まり、精が過ぎると渇き

 

気が疲れると切れてしまう。

 

人間の生きる道は神であり、形体の依託は気であるが、気が衰え形が損耗したあと

 

長生きすることはあり得ない。

 

 

全て「有」というのは「無」から生ずるものであり、形と云うものは神を待って自立する。

 

有は無の館であり、形は神の宅である。

 

家宅を安全にしておかないで安生と修身を養身をするので、

 

結局は気は散って空虚となり、魂が抜け変わった状態が現出するのを免れざる負えない。

 

 

これをろうそくの灯に比べれば、ろうが燃え尽きたあと火が消えることであり

 

堤防に例えれば、堤防が崩れれば水が溢れ出すと同じ事である。

 

 

魂は陽であり、魄は陰である。

 

神はよく気を服し、形は五味を味わうが、気が清ければ神は爽快であり

 

形が疲れれば、気は濁る。

 

気を服する者は、千百でも死なず、穀食する者は千百で皆死んでその形態は地に落ちる。

 

人が死ぬと魂魄が天地に分かれ、木火に分散してそれぞれの本源に戻る。

 

生きて同体で死ぬと、瓦に落ちて飛び散ってしまうのは自然の摂理でもある。

 

これを例えれば、一つの木の根を焼くと、その煙は上昇し、灰は下に沈む。

 

この自然現象と同じである。

 

 

全て神明は生化の本元であり、精気は万物の体で、その形を温存すれば生き

 

その精気を養うと、その生命は長続きする

 

とある。

 

 

はてさて、最後の400年も前に書き記されたホ・ジュンさんの東医宝鑑の日本語訳は、

 

非常に分かりやすいように書かれているが

 

それでも、今の現代の思想体系からは、なかなかに理解が困難な内容でもある。

 

それだけ、日本人がバカになったという事でもあろうか。

 

それとも、西洋医学的思考に洗脳されて、

 

病気になれば薬を飲めば大丈夫。

 

癌になってもリンパ節を含む丸ごと切除して、

 

その後は標準治療すれば統計上の生存率があるから心配ない

 

とでも思っている節があり、私もその類だが・・・

 

今の心の働きと身体の状態確認もせずに大切にしない人が多い気がする。

 

金を優先して養生などと云う概念を微塵も感じない、

 

手術即退院、リハビリは各自で・・・という今の時代の医療体系は

 

単純に長生きはするけれども、その中身はスッカラカンであり

 

充実した毎日とは云えないのではないだろうか?

 

 

要約すると、人は心の働きが非常に重要で、

 

自分の心がもやもやすると云った、少しでも濁っていると思えるような場面に遭遇した時に

 

それを解決せずに、腹に飲み込み、若しくは避けて通っていてばかりいると

 

いつかは蝕まれて不健康になり、

 

毎日が、これが正しい、天地神明に誓って間違いないと清い気持ちで過ごすのならば

 

それはつまり充実した心の働きによって健康な体を生み出し、

 

いつまででも気分よく長生きすると言っているのである。

 

 

正しいと思い込むことと、正しいことは違う。

 

正しいとはどこに向かうことを指すのだろうか?

 

 

倫理と道徳という言葉が日本には存在し

 

極端例を挙げれば、人を殺すことは重罪であるが

 

戦争に行って自国民を守る為と称して他国民を殺すことは称賛されるのが戦争行為である。

 

 

前者は倫理上の正しい認識であり、後者は道徳上の正しい認識とされる。

 

 

しかし、それは人間が決めたルールであり、

 

動物の命や植物の命を殺して、若しくは食べる行為は、どちらに入るのだという

 

鶏が先か卵が先かのジレンマに陥ってしまう。

 

普段そんなことを考えずに、ストレスなく生きているのが人間だが、

 

どこかで決着しているのだろう。

 

 

そんなことで、なかなかに心の働きと云うのは、ましてや心の向き先で

 

どこが正しいのかすら分からないけれども

 

恐らくは、人と人の関係性において、衝突せずに生き生きと暮らせる方向性が

 

実際は正しいのだと思うのだ・・・が・・・・

 

 

そんなこんなで、「神」と云う字を調べていくうちに、

 

とんでもない方向へと話が向かってしまいました。

 

 

本日も、だから何を言いたいの?と云う声が聞こえてきそうですが

 

大判風呂敷を広げたままで、片付けもせずに帰ってしまうようなことで

 

申し訳ありませんが、これで終わりにしたいと思います。

 

 

最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。