機能的 | 独学の道Ⅲ

独学の道Ⅲ

自分で自分を変えることは、到底無理なことかもしれないが、それに望む気持ちの自力論は高尚で偉大である。仮にその結果が甚だ振るわなかったとしてもだ。By幸田露伴(努力論言葉より)

 

アラジンパンツやらサラエルパンツと云う

 

イスラム民族衣装が世界に知られたのは、1970年のパリコレ

 

だとネットには書いてありました。

 

 

私が知ったのは、M.C.Hammer U Can't Touch ThisのPVが初めてで

 

 

その次に目に付いたのは韓国PSY GANGNAM STYLEが二度目だった気がします。

 

 

イスラム民族衣装には地域性によって、ワイドタイプとスリムタイプが存在し

こちらの細くて股が切れ上がっているタイプの事をアラジンパンツと呼び

 

 

ワイドタイプで股下が切れ上がっていないタイプをサリエルパンツと呼ぶそうです。

 

あれは動きやすいのかなぁ~?と思って、

 

ニッカズボンを履く職人さんに聞いてみました。

 

 

職人さん曰く、

 

足首がすぼまっている事によって、現場での鉄骨資材などへの引っ掛かりが無くなり、

 

太もも部分が多いことによって、しゃがみ立ちなどの動作が非常にしやすい

 

とのことで、好んで使用している職人さんも多いと聞きますが

 

最近ではワークマンウェアーが伸縮性もあり機能的に満足できるレベルなので

 

ワークマンを身にまとう職人さんが増えてきたということです。

 

 

いずれにしても、機能的であるということが一番重要な事のようです。

 

 

 

全然話は変わりますが、

 

先日撮影した画像を復活させようと

 

あれこれと加工をしているうちに訳が分からなくなってきました。

 

そしたら

 

それはそれで、良いんじゃね?

 

という加工に至りました。

 

 

元の画像が露出オーバーでイマイチぱっとしないのでGIMPでいじっていたら

 

 

別の画像になってしまいましたが、

 

 

これはこれで何かの背景に使えそうだな?と思わせるものに変化しました。

 

ラッキーチョキ

 

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パソコンソフトって、ほんと機能的グッ

 

 

 

 

そして本題の、機能的と思えるのが

 

映画 JOKERの統合失調症状があって、それでも生きているという

 

人間の機能性です。

 

ある意味で作られた物語ですので、人間の本質ではありませんが、

 

世相と云うか・・・社会を反映している部分が多分にあるよね~って感じで捉えてみると・・・

 

 

 

死にたいと心で思っていても死ねない。

 

ですよね~

 

死にたいと口走っていても・・・心では毎日そう思っていたとしても・・・

 

そう簡単には名残惜しく、人生を終わらせることはできませんよね。

 

 

何とかこの世で生きていくために、

 

例え精神が自分でコントロール出来ないほどおかしくなったとしても

 

心が機能的に働き、世間とのバランスをとる為に様々な現象を引き起こす模様を

 

この映画では良く表しています。

 

 

心の病は実はない・・・普通に生きろ・・・普通ってなんだ・・・

 

と云う表現が面白いです。

 

 

つまりこの社会は、最頻値の答えによって仕組みが大方出来ているということを示唆しており

 

天才も舌足らずも、過剰表現者も白痴主義者も生きずらい社会というのです。
 

 

しかし、納税システムを広め、社会を権力者の都合に合わせて機能的に日々を回していくためには

 

最頻値の人々にルールを合わせ、それから逸脱する者たちを、矯正する必要があり

 

その為に法治順守のための取り締まりなどが存在します。

 

 

またアメリカなどでは、より機能的に司法システムを円滑にするために、

 

裁判を経ずに司法取引と云う形で、お金で解決を見い出すこともやったりできます。

 

犯罪が多くなってくると、いちいち裁判制度で、弁護側と警察側とで事実の検証を行って

 

道徳的判断を下す手間と時間を省く機能的なシステムです。

 

 

日本でも交通違反を現認のみで、いちいち検証せずに、

 

簡易的に青切符や赤切符などでお金を支払って終了するのに司法取引は似ているのかもしれません。

 

 

 

淡々と国のルールに合わせて自分と云うものを殺して生きた者が得をして、

 

人間として、動物として自分に素直に生きるものには罰がある人間世界

 

 

を生きずらいと感じる者がジョーカーなどの役に心が救われるのでしょう。

 

 

 

人が人を殺した時、殺された側のその家族はなぜ?

 

という気持ちと同時に相手に対する殺意が湧き出すのは当然でしょう。

 

しかし、日本国は報復を禁止しています。

 

例え人を故意に殺したとしても、それは法で道徳的に裁かれるのであって、

 

その家族に報復されて殺されることを禁じているのが・・・面白い司法制度です。

 

 

何故なら、国民最頻値の声を中心に考え出された社会ルールが、

 

法治(道徳)ルールでは禁止され、知的で哲学的水準(倫理)で制度が設計されているのです。

 

 

そこに多くの国民は疑問を持ちつつ、自分の能力では抗えない落後者は、

 

致し方なくプロバガンダコントロールされているのが皆が思う矛盾だと私には思えます。

 

 

そこに映画ジョーカーでは、

 

暴力、銃社会問題、母親殺人、酔っ払い、ちょっかい、無視、迷惑、喫煙

 

暴動、権力への抗い、カウンセラーへの逆恨みと云う

 

ジョーカーにとって世界の善意は全てが偽善であり、

 

その一つ一つを、自分に都合よく始末して片付けていくと

 

結局は何も残らない

 

ということが良く分かる作品だったように思います。

 

 

 

しかし、社会で所得の底辺に生きる者にとって、

 

代理執行者は、それを褒め称える傾向があり、

 

現在の岸田増税政権も同様に、苦しめられている者達にとっては、

 

下から上を望むようなルサンチマン心理を覚えるように、

 

心に響くものがあります。

 

 

そういう意味でこの映画は、精神的な機能性を求めた結果が生み出された表現だったように思います。

 

 

 

機能的とは、実用的で無駄のないように出来ている設計とあります。

 

 

人間も、現在機能的に生きようとする人が増えていますが

 

無駄と云う部分は、本当に無駄なのでしょうか?

 

 

映画ジョーカーを見ていると、無駄って逆に重要に思えてきます。

 

 

例えば、福祉精神なども同様に、歳を取ったら死ねばいいという

 

柳田国男の口伝「くちべらし姥捨て山制度」がありましたが

 

今では、精神福祉法や介護保険制度によって

 

人は生まれてから死ぬまでの快適な生存保証の権利が作られて

 

最頻値の生き方を押し付けられながらも、生かされ続ける世の中となり

 

そこから外れた人々は、最悪だと思いながらも機能的に生きることを強要されます。

 

 

もしも、無駄に生きたいと願うなら、また最頻値の基準内から外れた生き方をしたいのならば

 

生きづらさの理由を考えて、ぎりぎりを縫うように生きていかなければなりません。

 

 

とかくこの世は、予算が限られており、以前の昔のような自由は益々削られていき

 

無駄を排除した人が選ばれるようになっている気がします。

 

 

自由や多様性と説きながら

 

週に3日労働希望者に対して、それで生きていけるのですか?と押し付けて

 

面接を落としてみたり

 

面接で、男性を全員落として、美人どころだけを就職させてみたり

 

喫煙者を雇わないなどと云うように

 

建前と本音が分離したこの社会は、以前の社会よりひどい状況に思えます。

 

 

以前だったら、女性工員募集とか、繁忙期週7日勤務ありとか

 

書いてあった段階で振るいにあって、それに該当する人のみが面接をするような時代が

 

ついフェミニズム以前までありました。

 

週休2日によって、心身の安全確保と云って土日が休みになりました。

 

しかし、その減らされた労働日数分の給料も減り、

 

働きたい人にとって都合が悪い制度になり、副業や確定申告作業も増えました。

 

そういう意味では、今の面接制度や労働基準制度は、

 

法律という建前をクリアーする為の無駄があり、ハッキリ言って機能的ではありません。

 

 

この社会は、様々な法律が施行され続けて、建前と現実との矛盾状態になりつつあり

 

矛盾な法律を削減できるところは削減していかないと、

 

逆に無駄・矛盾ばかりの社会になりつつあるように思います。

 

 

例えば、畑を耕すトラクターです。

 

横幅が2mを超えるものは免許を取らなくては運転が出来ないようになりました。

 

トラクターを運転するのは今までずっと畑を耕し続けてきた高齢者です。

 

一昨年から改正された法律によって高齢者が免許取得に教習所に押し寄せています。

 

そんなんじゃ、農業辞めようと思う人が続出してくるでしょう。

 

安全が大切ですが、どちらに重きを置くか?

 

と云う考え方になってくるように思います。

 

 

無駄を省く機能的な社会は、

 

これからも最頻値思考人間を多く輩出し続けることでしょう。

 

 

それに該当しない者たちは生き辛くなって、

 

精神病や引きこもりという現象を余儀なくされながらも

 

機能的に生きていかざる負えないのでしょう。

 

 

 

今日は、機能的と云う言葉を追って、色々と思考を巡らせて長い

 

とりとめのない話を書いてしまいました。

 

 

よくもこんな支離滅裂な文章を

 

最後までお付き合いして読んでいただきましてありがとうございました。

 

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