争いと闘いと戦い | 独学の道Ⅲ

独学の道Ⅲ

自分で自分を変えることは、到底無理なことかもしれないが、それに望む気持ちの自力論は高尚で偉大である。仮にその結果が甚だ振るわなかったとしてもだ。By幸田露伴(努力論言葉より)

 

 

清々しく、そして空気の張りつめた、それでいて珍しく青空に太陽が昇っている久々の空に

 

今日は粉雪が舞っている朝だ。

 

4月ももうすぐそこだというのに、隣の梅の花もチラホラと10輪ほど咲き始めているというのに

 

いつまでこの寒さが続くのだ・・・いやそうじゃない。

 

円安で高騰している灯油代をいつまで払い続けるんだというボヤキの心が根底にあるからこそ

 

素直に青空と、美しい粉雪がそのままに捉えられないのであろう。

 

経済観念と自然美との相まみえぬ二つが私の心の中で葛藤をいま起こしている気分の目線なのだ。

 

 

 

最近私が読んでいる書籍は、どれも何故だか争いにまつわる内容のものが多いような気がする。

 

 

ロバートハイラインの宇宙の戦士や

 

宇宙の戦士〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

 

渋沢栄一の論語と算術など

 

 

現代語訳 論語と算盤 (ちくま新書)

 

 

 

内容は、粗方・・・外部との戦いや内部との戦い、そして争いについて教える内容のものだ。

 

その影響がモロに私の視点にバイアスを掛けているのかもしれない。

 

またこういう場合に、人を見ると色眼鏡で見てしまい兼ねないから、気を付けたい。

 

 

さて、ここで言葉の整理をしてみよう。

 

 

争いとは、口論、闘争、けんか、競争、いさかい、論判、論争、言い争うことなどを指す。

 

闘いとは、自分に打ち勝ち困難を乗り越える状態を表すことを指す。

 

戦いとは、勝ち負け優劣を競うことで、選挙などで当選するなど結果を表すことを指す。

 

 

私は今まで、というよりも人生のほとんどを、この類の概念から離れるようにして生きてきた。

 

中学生までは、マラソン大会などの学力以外の部分で競争に参加したものの・・・

 

学力テスト、そろばん大会、スキー大会、魚釣り大会、様々な競争にまつわる事柄において

 

粗方、1位になることはなれず、

 

よって、最下位でなければ良いだろうと考え

 

仕方なく参加することを覚え、また年齢が上がるに連れて、参加するフリをしており

 

今では、参加することすらも無くなって、どこか遠い所でやっているもの・・・

 

というような認識で、

 

自分の心が平和で乱されず、淡々と好きなことだけに時間を費やし

 

そして、その流れで過ごし生きている

 

また、周りにもそういう人たちを友人や協力者として配置して、

 

争いを好まないグループとして生存圏を作ってきた・・・

 

という半ば、世捨て人、もしくは平和主義者のように大半を生きてきた。

 

 

・・・が故に、心が苛立っている人や競技に関わる人の心理、

 

芸能界で上り詰めようと努力する人々に会っても、

 

その底知れない不安や、もがき苦しむ心理など

 

一切見て見ないようにして、すれ違ったことだけは認識し、

 

汚いものを見ないように、そして触らないように、そして関わらないようにと

 

またもや、自分とは住む世界が違うのだと区別してしまっていた。

 

 

これはこれで、自分だけは平穏な気持ちで、一切の心乱されることがないが故に

 

居心地は良く、毎日がぬるま湯に浸かっているような気持ちで毎日を暮らさせてもらっている。

 

 

これは、私のブログを長年見続けている方ならば、分かるだろうが

 

めっちゃ幸せな人だと見られているだろう。

 

 

しかし、最近読む書籍には、平和過ぎることを危険だという、半ば警戒するかのような

 

もしくは、奮起させるような内容が私の目についてきてしまうのだ。

 

 

渋沢栄一さんは、そもそも昔の時代に、会社を500社も作り、現在でもその裾野は広がって

 

多くの人がそこで、またその関連会社で働いて恩恵を受けていらっしゃることだろう。

 

麻生太郎さんの九州地区50社のゼネコングループ、その他よりも

 

遥かに渋沢グループの規模の方が大きい組織だと思う。

 

 

渋沢栄一さんは、この書籍の中で

 

「いやしくも人として生まれ、特に青年時代において

 

絶対に争いを避けようとするような卑屈な根性しかないと、

 

到底進歩したり成長したりする見込みはない。

 

また社会を進歩させていくためにも、争いが必要なことは言うまでもないだろう。

 

しかし敢えて争いを避けないのと同時に、チャンスが来るのを気長に待つということも、

 

世の中を渡っていく上では必要不可欠だ。」

 

と述べられており、私は愕然としてしまった。

 

 

渋沢から私という人間を鑑定されたなら、確実に卑屈な部類に入れられるのだろう。

 

 

そして、渋沢にとっての争い事は、良いことなのか?悪いことなのか?という考え方だが

 

「世間には、争いを絶対に無くし、いかなる場合においても

 

争いをするということは宜しくないとしているが、

 

では、他人との争いをするということは、人が生きていく中で果たして利益になるものだろうか?

 

逆に不利益になるものだろうか?

 

実際問題となると、これは随分人によって意見が異なることだろうと思う。

 

「争いは断じて無くすべきではない」「絶対に無くすべきだ」

 

私の意見としては、争いは何があっても無くすべきものではなく、中国孟子の言葉に

 

「敵国や外患がないと、国は必ず滅んでしまう」と述べているとし

 

学術・工芸・外交など切磋琢磨して勝ち続けていかなければ、国家は存続しえないし

 

成長や進歩も望めない」としている。

 

などと書かれていて、確かにそうだと思わせられた。

 

そして、自分の大半の半生が間違っていたのかもしれないと思い始めている。

 

もう少し、努力しても良かったなぁ~という思いから

 

仕事を頑張ってみようと思い、昨日も友人と晩の席で平和主義者の彼と対面しながら

 

その話をしてみた。

 

彼は、「期待しないで待っているよ」とさりげない応援をしてくれた。

 

ちょっと嬉しかった半面

 

でもしかし、今更ながらに自分が築き上げてきた平和の生存圏において

 

「いや違うと思うよ」などと否定してくれたり、

 

または「この時代においてお前の思考は浅はか過ぎる」などと

 

アドバイスから口論したり論争を交わせる友達が

 

もう少し位いても良かったかなぁ~とも思う。

 

 

人生は癌にでもかからない限り90歳でも生きられる。

 

 

今からあと40年もあると思えば、この10年で経済基礎と競争現場を作り上げれば

 

あとは楽だろう。・・・というよりそれに伴った苦難と苦悩が待ち構えているだろう。

 

だが、しかし

 

少しずつ競争社会に参加してみて、商売的に努力してみようと思い始めた昨日だった。

 

 

これも、今読んでいる書籍の副作用たる啓発副次効果のおかげかもしれない。

 

 

戦争や争いというメインテーマではあるが、それを通して

 

人は争いや戦いから避けては生きられないものであり

 

程度問題の中で、だいたい人は生きている。

 

そして、あらそいを乗り越えることの術によって、様々な成長転換が興り

 

その苦難と苦労を乗り越えてこそ、

 

ギャップによる喜びを知り得るのだということも教えられる。

 

 

まだどれも読書半ばであるから、完読してからまたその続きの感想を語りたいと思います。

 

今日は、そんなことで「あらそい」というものについて

 

引用などしながら、自分の認識の整理を行ったところです。

 

 

本日も最後までご覧いただきましてありがとうございました。

 

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