恋の波長 | 独学の道Ⅲ

独学の道Ⅲ

自分で自分を変えることは、到底無理なことかもしれないが、それに望む気持ちの自力論は高尚で偉大である。仮にその結果が甚だ振るわなかったとしてもだ。By幸田露伴(努力論言葉より)

恋とは、一方的に思いが募り愛でる気持ちの事

 

連続したその気持ちを恋慕とも言い換えられたりします。

 

対象は、人間のみならず、あらゆるものが対象となります。

 

時として、愛と勘違いされることがありますが、

 

愛とは恋よりも謙虚な姿勢で、相手の出方に従って呼応し

 

時には自らを犠牲にしてまでも守る存在を愛と呼ぶのではないでしょうか。

 

 

 

以前、四角い密閉性のある箱の中に数センチ角の銀紙を紐で吊るし

 

更には光の影響を受けないようにと、のぞき窓のみを残して四方を黒い紙で覆い、

 

更には、その空間から空気を抜いて限りなく真空にしていくと、

 

当然その銀紙は空気がなく物体は重力の影響以外に動けるはずもなく、

 

そこに留まっているはずであった。

 

 

人間がのぞき窓からその銀紙を覗くと、しばらくして銀紙が動き始めたというのです。

 

 

研究者は、人間の目に反射した光の粒子が、焦点が合った銀紙へとぶつかって

 

銀紙が動いたのではないかと結論づけた。

 

 

 

その効果は、気配という言葉として言われることがあります。

 

 

その実験結果をもとに、

 

天気の良い日に学校の教室内で、好きな相手をずっと見続けていると

 

光の粒子がその相手へとぶつけられて、皮膚感覚では感じられないが

 

場合によっては何となく気配として感じられて

 

相手を振り向かせることも可能かもしれないことを提案したことがあります。

 

 

同様に、

 

宇宙空間の中で、メインの任務を終了したアメリカの探査衛星オシリスレックスは

 

次のオプションミッションとして

 

小惑星に太陽の光が当たると・・・どれだけ当たった部分の膨張熱によって

 

推進力を得られるか観測するミッションに就いています。

 

 

これは、先ほどの教室内の好きな人を見続けるのと同様に

 

真空の空間において光の光粒子が岩石に衝突した時に摩擦熱を生じて、

 

それが空間を膨張させることによって、岩石を移動させる推進力となり得るとする考え方を

 

仮定した観測実験でもあります。

 

 

 

人は恋焦がれ、視線の中にその対象がある場合には、光の粒子によって

 

ごく微弱な粒子を使って気配を感じさせることも可能かも・・・知れません。

 

しかし、

 

対象が数百キロ離れている場合に、恋のメッセージを伝えるにはどうしたらよいのでしょうか?

 

と考えると、脳波の波長をどう伝えるかにかかっているような気がしてなりません。

 

精神学者のユングやフロイトは、宇宙に風船のような意識体があって、

 

人の体と見えない糸でつながっており、その意識体が接触した時に

 

世界の反対ににいる人と、同時多発的に事象を共有できると書籍に書いてあります。

 

現代用語で云う所のテレパシーとでもいうのでしょうか?

 

未だそこは分かりません。

 

そういうスピリチュアルな表現を除けば、現実世界では

 

当然、それは何もしなければ片思いでしかありません。

 

 

しかし、もしもラインや電話などのコミニケーション出来る手段があるのなら

 

ごまかしていたとしても、何らかの形で伝わるに違いありません。

 

 

当然、直接的なら問題ないのですが、

 

日頃を装った会話の場合、どのようにその波長を出すかによって

 

その後の流れが変わることは、思春期を経験したものならば、誰しもが解るでしょう。

 

 

言葉の通じない動物でさえ、ニュアンスが伝わり、信頼関係を築けるのだから。

 

 

 

私は、以前、月ノ輪熊と4度程、目の前で合っています。

 

中学生時代に自転車に乗り渓流釣りに行っていた時の事、

 

必死に上り坂を立ち漕ぎしていた時です。

 

渓流沿いの川の音を聞いていて、ふと頭を上げた瞬間に

 

4m先の対岸の大きな木に爪を研いでいて立っていた2mの熊に、

 

ばったりと出くわしてしまったのです。

 

自転車を転回して、後ろを振り向かず猛スピードで町まで一目散でした。

 

 

2度目は登山の時に遠目に後姿を見て、それ以降は彼が過ぎ去るのを

 

息をひそめじっと待ってから、一気にやる気が失せてその場を引き返しました。

 

 

3度目は無鉄砲な30代前半、体力にものを言わせていた頃です。

 

夜中じゅう、蔵王の主稜線上を一人ずっと走って山岳道路が山の稜線上を通過する場所まで

 

山岳道を30Kmほど走って、

 

そこから30Kmアスファルト道路に沿って下山し、

 

山形駅まで行く頃には始発が出ている頃だろうとタカをくくって

 

午後から走り出した15時を過ぎた頃でした。

 

その前の年、富士山を下山してそのまま町中を歩いて

 

富士宮駅に体中から汗が塩に変わって、じゃりじゃりするほどまで頑張って歩き

 

成し遂げた成功体験をまたもや似たようなことを模倣しようと挑戦したのでした。

 

周囲30Kmの山にはきっと誰一人登山者などはいないであろう稜線上で

 

巨大なツキノワグマが私を見つけて警戒するかのように、巨大な大木をゆすっている時だったのです。

 

私は、山林関係者が道標でも立てているのだろうという軽い気持ちでそこに走っていきました。

 

しばらくすると、なんだか雰囲気が違う。

 

人気がなく、誰も道標など立てている様子もなく。

 

当然、機械の音すらしない。

 

アドレナリンが放出しながら、夜中も走ろうと意気揚々としている身体は急には止まりません。

 

全てが自分の都合の良いように考えているからです。

 

 

しかし、さすがに幹回り2mもの大木が揺れている5m手前まで走った時、私は気が付きました。

 

こんな大きな木をものすごい勢いで揺らせる力は・・・

 

人ではない。

 

完全に巨大な熊が私を警戒している動作なのだと。

 

 

これ以上近づけば、殺されると瞬間的に察した私は、180度踵を返し、必死に走って逃げました。

 

 

熊は時速60Kmも超える速さで追いかけてくるでしょう。

 

しかし、今逃げなければ、完全に食い殺されると思って、

 

心臓が止まるまで走り続けました。

 

 

熊の爪の一撃に、首が吹っ飛ぶか?

 

運が良ければ、顔面の皮膚がペロリンと剥がれ、目玉や耳がが一つくらい無くなっている。

 

それとも自分の心臓か血管が破裂して死んでしまうか?

 

選ぶなら心臓が破裂した死の方を選ぼうと決心し逃げました。

 

 

おかげで、ハンガーノックを起こしたのです。

 

 

血糖値が低下して、

 

視界は暗くなり、大きな岩の上に仰向けに倒れ、手足に力は入らず痙攣をしている。

 

かろうじて息はしているが、全く目が見えない。

 

 

 

あーーーこのまま熊に見つかって、身体を引き裂かれるかもしれないと思いながらも

 

手足は痺れ、全く動かない。

 

10分ほどすると、カロリーメイトさえ口に突っ込めれば、舐めながら血糖値が回復するに違いないと

 

希望を持つが、未だ手には力が入りません。

 

 

あーーーでも視界が開けてきて目が見るようになってきたのは

 

倒れてから30分経過した頃であろうか

 

何となく指先も動かせるようになってきて、

 

まだ自分の体もまんざらではなく、自己回復力があるのだと安心し、

 

わずかな力を振り絞って、カロリーメイトを一本口にして、相変わらず寝ながらそれを舐め続けました。

 

しばらくして血糖値が回復し始めてきたおかげで、頭痛と共にかろうじて動けるようになった頃には

 

あたりは真っ暗だったのです。

 

唾きの出ない口に、もう一本のカロリーメイトを押し込み、水分の何かで胃へと送り込みました。

 

旨いとか不味いとかの問題ではなく、生きるか死ぬかの瀬戸際の行動です。

 

周囲に熊の気配はない。

 

幸いに追いかけてこなかった様子でした。

 

その場所は、昭和の登山ブームの頃なら山岳部などが行き来していたかもしれないが

 

平成の頃には、レアなコースであって土曜日か日曜日で、

 

さらにはご奇特な登山愛好家しか訪れないであろうルートだから

 

熊の中庭と云っても過言ではないだろう場所なので、

 

襲う気などなくても巡回して回るであろうと思われる場所だから

 

余計に熊の気配には敏感になってしまっているのです。

 

 

 

とにかくこの場所から一刻も早く離脱しなければならない。

 

そう思って、午後に来た道を引き返すことに決めたが、帰りは大きな岩場の

 

登り返しが30分ほど続き、まるで大雪山トムラウシのロックガーデンを

 

登っているかのように錯覚する場所を、月が照らす青い空間の夜の闇のなか

 

30分の格闘の末、ようやく乗り越え

 

その後、斜面を登り砂場の稜線まで歩き、それから2時間ほど真夜中の山を敗北感満載に

 

ひたすらに歩いて帰ったことを、今も昨日のように思い出します。

 

これが3回目の事でした。

 

4回目は、私の不注意です。

 

熊が湖の水にバチャーンと落ちる音を聞いた。

 

今までの経験から、見ずとも分かった。

 

あれは、水辺に伸びるドングリなどの木の実を欲しがって、

 

木を伝って細い先の方に手を伸ばしたは良いが、

 

自分の体重が重すぎて枝が下に萎れて、終いには水に叩き落されてしまったのだと。

 

 

私は、始めたてのフライフィッシングの為にそこに訪れていました。

 

自分でフライをタイイングして、魚が釣れるか釣れないかを試していて

 

熊の気配は感じていたが、半ば侮っていました。

 

 

相変わらずフライフィッシングは釣れずに、飽きてきたところに

 

先ほどの水の音を思い出したのです。

 

 

しばらくしてから熊が何を食べたかったのかを知りたくなって、

 

そこにボートを借りて近づき

 

枝を触りながら、熊はこのドングリを食べたかったのかと、スマホで写真を撮っていました。

 

対岸の山の斜面にドスドスと明らかに熊の足音と、茂みが動く様子が分かりました。

 

んーー2頭いるなーーー

 

あっという間に、その目に捉えられない動く一つの移動体が、ぐるりと周囲を移動しながら

 

私のいる斜面へと来ているのが分かりました。

 

もしかして・・・と思い、オールを漕ぎながら岸から離れ、10m付近まで離れて観察しました。

 

そこに、目の前にいるのは雰囲気で分かりましたが、顔は見せない。

 

きっと向こう側からは、こちら側は見えているのだろう。

 

10秒かそこら凝視していると・・・途端に、ひょこっと熊が顔を出し、

 

赤く血走った目と犬のような犬歯を剝き出しにして私を見ているのです。

 

気が付いた瞬間に、熊独特の地鳴りのするようなウーと唸り声を発し始めた。

 

これはヤバい

 

危機感を感じつつ、しかしながら、奴は襲う気ならとっくに水の中に入り、

 

ボートまで近づいてくるはずだ。

 

しかしそれをしない。

 

まだこれは駆け引きの途中なのだと察し、

 

私は熊に「大丈夫!安心して。いま下がるから」と声をかけたのです。

 

そしてオールをゆっくり動かしながら岸から20m30mと離れ、難を逃れ。

 

50mほど離れた時、2mはあろうかと見える真っ黒な熊は

 

その200Kg以上あるだろう巨体を軽々と動かし、ドスドスと

 

1秒で10mの勢いで急な山の斜面を登っていった。

 

急にアドレナリンが分泌し始めて、心臓が口から飛び出すかと思うほどでした。

 

これは、蔵王のハンガーノックの時も同様で

 

口を押えて、心臓が口から飛び出すのではないかと思うほど、

 

抑えるのに必死だったという記憶が蘇ってきました。

 

 

 

危機から逃れた一つには、熊に声を掛けて、

 

熊との僅かばかりの駆け引きと意思疎通が図れたところがあったからではと今でも思っています。

 

ボートをレンタルした、その亭主に熊に出くわした話をしたところ、

 

彼はアイドルだから内緒にしていて欲しいと言いました。

 

日本全国から左瞼の上に傷がある彼の雄姿を写真に収めようと日々集まってくるのだそうです。

 

それを聞き、なぜ私を襲わなかったのか?

 

人慣れしていることにも合点して安堵したのです。

 

 

5度目と6度目、7度目は、直接は見ていませんが、ニアミスであったことは

 

先行者に、熊そこ通過しましたけど・・・という話を聞き、

 

危機一髪だったことを後で知り得たことは懐かしいです。

 

 

とかく、槍ヶ岳下山中の雪渓で横断する熊を警戒してサルがギャッギャッと騒いでいた時は

 

なんでサルがうるさいんでしょうね?

 

などと振り返って数秒時間を稼いでいたせいで時間が稼げたらしく。

 

ちょうど藪の中の数m先を熊が横断していた時だったらしい。

 

振り返って話していなければ、バッタリと鉢合わせをして対峙したことだったでしょう。

 

知らぬが仏であってホント良かったとしか言えない。

 

これも、後付けで言い訳をするなら、サルが騒いでいるという

 

何らかの異変の波長に気が付いていたから回避できたことだったのかもと思えてしまう。

 

 

先ほどの恋の話から随分と話が反れてしまいましたが

 

山に入る時には、必ず意識の波長は、第一に獣に合わせておかなければならない。

 

サルや熊、イノシシやシカなど、様々な動物の生きている世界に、

 

我々人間がお邪魔させていただく訳であって、

 

時には山の波長にも意識を馳せておかなければならない時もある。

 

特に冬山には注意が必要だ。

 

疑似好天や雪崩の予感には特に注意を払わなければならない。

 

私は以前の若い頃は、いつも一人で冬山に入っていました。

 

東北の生まれ育ちもあって、豪雪には慣れていると思っていたのです。

 

しかし、平地の豪雪と、冬山のそれとはまったく違うことを蔵王で知りました。

 

冬雪崩、春雪崩のみならず、アオモリトドマツの根に吸い込まれる事も度々あり

 

アホにも水の音を辿って行ったら、アイスフォールブリッジだったといった事もあり

 

あの時は足を置いた雪が崩れぬうちに急いで、ジャンプして難を逃れました。

 

落ちていたら、40mもの滝の水が氷になって、水が流れる部分だけに空いた穴の下に落ちて

 

春になって死体で発見されたかもしれないと思うと、今でもぞっとします。

 

縦走用ピッケルだけでなく、ショートアイスアックス二本も背中に持っていかなければ

 

12本アイゼンの登攀用のアイゼンを常に履かなければと

 

切に思った時でした。

 

また、ホワイトアウトで一瞬にして東西南北が全く分からなくなり

 

20m先にたどり着けないことも何度も経験しました。

 

その都度、モンベルの二重アルパインゴーグルに救われ、またスマホは-30では、使えないから

 

ガーミンのGPSとリチウム電池のセットで方向を知ることが出来て命が何度も助かりました。

 

専用GPSとリチウム電池は今でもお守りに持っています。

 

命の恩人なのです。

 

また水が凍って飲めないことも当たり前で、とにかく冬山は危険だらけなので

 

結論的に申せば、なるべく行かない方が身のためでしょう。

 

アイゼンやピッケルを手にすると、人は目が見えなくなってしまう。

 

命のあるうちに気が付いて欲しいものです。

 

もしも、冬季に登る機会があるなら、

 

この時も、敏感に山の波長に合わせておかなければなりません。

 

そうすれば必ず山は、危険を教えてくれます。

 

分からない場合には

 

嫌だなぁーと思ったら、それは何らかの啓示だから、出来るだけ速やかに引き返すこと。

 

今日はイケるんじゃね!と気分が高揚して思った時は、

 

大体危険の直上にいることが多いことは実体験済みです。

 

バイクを乗っていても、山に行っても、心を研ぎ澄まし波長が合わせられれば、危険を察知できる。

 

逆を言えば、恋愛も出来る。

 

この人、いい人だなぁー好きだなぁーという思いは、なぜだか相手にも伝わる。

 

それをものにするかどうかは、別として・・・。

 

好きと、恋と、愛とは、言葉通りにステージが違うように私には思えます。

 

 

好き < 恋 < 愛 という順に、

 

自分の思いに呼応する気持ちの大きさが違うように見えます。

 

好きは一方的に、そして表面的に

 

恋は一方的だけれども、相手や作り手などの気持ちが入っていて、その心意気に焦がれる気持ちの事

 

愛とは、自己犠牲的になれる好きの事で、

 

それは互いに犠牲を承知で相手を尊重することを意味することのように思えてしまうのです。

 

 

もはや、あなたは何をいっているの?

 

といったスピリチュアルな文章表現になってしまっているのは、あいすみません。

 

話をちょいと科学的な視点から見てみると

 

波長というからには、波の長さ、ヘルツを意味する訳ですが、

 

1ヘルツは、1秒間に一往復する波の事。

 

女性の声は225ヘルツ、男性の声は120ヘルツ

 

鳥の声は、100ヘルツから800ヘルツ

 

光の波長は530ナノメートル

 

赤外線は770ナノメートルから1ミリメートル

 

心の伝搬は、人から人へ表情や声、仕草などによって相手へと伝わる。

 

これはある意味で、認知から認識、そして感情へという時間的な変換を鑑みると

 

1ヘルツ以下の感情の伝搬と云っても過言ではないだろう。

 

 

そして、恋は、心臓のPQRS波の波形のどこかで感じとるのかもしれない。

 

 

この心臓の規則正しい鼓動のパターンの中で、トキメキを感じた時に

 

感情の揺らぎからホルモンが分泌し、それは交感神経などへ作用し心臓の

 

イオンの脱分極に乱れが生じ、不整脈となり、ドキドキと恋をしていることに気付かせる

 

特異的な動きを示し、この変動を「恋」と「認知」し「記憶」され、

 

相手を焦がれる「記憶」が蘇る度に、またもや

 

脱分極に異常をきたし、人の行動を狂わせてしまうのかもしれない。

 

・・・と私は思うのです。

 

 

そういう意味では、安全地帯の恋の予感という曲は、あながち間違った表現ではないのかもしれない。

 

 

 

また、先ほどの山からの危険だよという声も同様に、

 

照り返す紫外線の量などが山に、そして雪面に反射して身体に受け

 

 

過去に危険だと記憶した場面条件の記憶が蘇り

 

この状況は、きっと危険が迫っているという風に深層心理で感じ取ってしまうのかもしれない。

 

 

この時も同様に、心臓の脱分極のリズムが狂わされて、危険を認知することに繋がっているように

 

自分の体験からそう思えてしまうのだ。

 

 

 

随分と恋の波長から離れしてまった感が否めませんが、

 

 

人間とは、心も身体も・・・本当に面白くできていると思う。

 

 

もしかして、私の心臓がスポーツ心臓で左心室肥大をしているから

 

PQRS波の後のT波の脱分極タイミングおかしくて、変にトキメキを感じ

 

それを危険の記憶として感じ取っているからこそ、

 

そのように思えてしまうのかもしれません。

 

 

 

そんな風に分析して今日の内容は終わりたいと思います。

 

 

最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。