ケーキの切れない少年たちを読んでみて | 独学の道Ⅲ

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自分で自分を変えることは、到底無理なことかもしれないが、それに望む気持ちの自力論は高尚で偉大である。仮にその結果が甚だ振るわなかったとしてもだ。By幸田露伴(努力論言葉より)

人の心は難しいということを改めて知りました。

 

そして同時に、社会というのは人と人とが関わっていく、複雑な意図という糸同士が接点を持ち

 

そして、時間経過と共に捩り合いながら、

 

絡み合ったそれぞれの人生が続いていく訳です。

 

 

昭和の昔は金太郎あめ教育によって、思考はある程度分類されるほどシンプルでした。

 

しかし、今は何が原因なのか?

 

それとも多様性を推進する社会だからなのか?

 

それとも、

 

LGBTQ+や発達障害を区別するように社会通念が変わってきたからなのか?

 

それとも、核家族が故の共依存が強くなっているのか?

 

飲みニケーションをしなくなっても良くなった分、もしくは

 

おもてなし精神で積極的関りを求められているせいなのか?

 

そこら辺の具体的な直接的な理由は良くはわかりませんが、

 

きっと全てが相乗相克効果を果たしながら

 

以前よりも人間関係がより複雑化しているように思います。

 

 

 

また、それを知り窮屈さを感じる人々は、人との距離を置くように、

 

孤立化・孤独化を望むことが多くなっているように思います。

 

これはボッチキャンプなどを鑑みれば当然の結果に見えます。

 

 

昔のように区別、分類などせずに生きられれば良いというのに、

 

何故だか現代は、人材が適材適所への配置がより精密になり、

 

労働力の歯車化が目立っている気がしますし、

 

つまり、窮屈で息苦しく、誰しもがマルチプレイヤーとして期待されているという風に思います。

 

 

またケーキの切れない非行少年の漫画事例でもあるように

 

問題を解決しようとすればするほど、人の心は難しく、深く、

 

そして現在のプロフェッショナルでも関わり方が難しく、悩んでいるというのに

 

解決を見る日は来るのだろうかと思うほど、

 

人の心はディープな世界であることを伺わせます。

 

 

それは、離婚という表面上の統計でも見られるように、現れており、

 

また結婚したくない理由に、イケメン、身長、年収、環境などよりも

 

繊細な凹凸の形に合う自分の心にフィットする相手が見つけられないという、

 

妥協しない現代人の特徴が表れているようにも思います。

 

 

人の精神や心の形成と発達には、きっかけが重要のように思います。

 

 

関りがなく、傷が出来ないようなお姫様のような生き方をしていれば、

 

大人になった時、社会に出た時に

 

はじめて言われた、ショックだった、理不尽さを感じた、不公平感を感じた

 

悔しかったなどといって、相手が悪いのだと非難し・・・危害を加えてしまうかもしれません。

 

 

しかし、ある程度小さな頃から、感情摩擦を受けて、

 

時にはいじめられたりして小さな心の傷を作ったり、不平等・理不尽さを感じることがきっかけで、

 

相手のことを真剣に考えはじめ、心の傷が正しく修復するという繰り返しによって

 

他人からの中傷に耐えられる免疫や弾き飛ばす勇気が生まれたり、

 

防衛できる心の壁の強さが育まれていくように思います。

 

 

より多くの人との精神の接触によって、人は強くなれるのかもしれません。

 

 

そして、自分という自尊心が育まれることによって、

 

他人への配慮という優しさが生まれてくることを考えてみると

 

コロナショックの頃から、リモートワークが増え、人間の関りが減っていくことによって

 

人の心は傷つきやすくなり、また怒りの矛先が間違ってしまうことも

 

多くなってしまうように思うのです。

 

 

最近、DQNとか、あおり運転とか、自己中マナー正義マウントなどの輩が増えています。

 

人に注意されたから、注意されないように努力した結果、

 

他人をも自分の正義の枠に押し入れようとして

 

警察官でもないのに、自警団のように、スピードを注意してくる輩が生まれたり、

 

正義感を振りかざす人の多くは、まさにこのような精神構造ではないかとさえ思えます。

 

 

悪いことは、確かに悪いですが、良過ぎることも「悪い」部類に入ることを忘れてはなりません。

 

 

たばこを吸う、アルコールを飲むことさえも注意される世の中は

 

正義マウントによって狂ったように注意をされます。

 

 

だったら、しゃべることが悪いと注意したらどうでしょうか?

 

食べることは悪いことだと注意したらどうでしょうか?

 

寝ることは悪いと注意したらどうでしょうか?

 

会社で、たばこを吸う人を雇わなくなったら、会社が変わったという言い方をする人がいます。

 

まさに、正義を振りかざしマウントするヤバい人たちの言動と行動です。

 

 

正義さえ口にすれば、それで良いと勘違いしているのです。

 

 

現代の精神の闇が、正義です。

 

 

正しいことを言ったはずなのに、なぜ非難される必要があるのですか?

 

と云うかもしれません。

 

 

 

正し過ぎることは、現在では悪なのです。

 

 

人間社会は最頻値の社会です。

 

 

司法はその為にあるものです。

 

正義を肯定する為のものではありません。

 

 

道徳とは、人と人が関わりあう中で、より仲良くできる方法を模索する方法です。

 

 

人のお金を盗むことは、倫理ではいけないことになっています。

 

では、相手から1万円盗んでおいて、翌日に自分の所持する2万円を相手に差し上げる行為は

 

いけないことなのでしょうか?

 

 

盗む行為を罰するのか?

 

お金をあげる行為で相殺できたのか?

 

それとも、損得勘定で多くあげる行為が慈善行為になって罰せられないのでしょうか?

 

それとも賄賂行為でしょうか?

 

非常に難しい視点です。

 

そこは道徳範囲で考えるべきところで云えば、

 

盗まれる方も悪いし、盗む方も悪い、その罪悪感から倍の賠償金を支払ったのなら

 

相手はそれで満足するべきか否か?という見方もあるかと思います。

 

 

 

今まさに、社会は、多面的にものが見れるようにしていく教育が求められているように思います。

 

 

 

そんな風に、ケーキの切れない非行少年たちを読んでみて思ったところです。

 

 

 

 

 

最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。