女児2人が振り返っている写真だ。
批判する側の理由は、「女児を性的対象化につながる」と危惧化した意見だ。
非常に難しい意見だ。
広告だから、確かに多くの方が目にするものだろう。
説明がなければ、何を見て良いのかわからないだろう。
そういう意味では、女児の視線や雰囲気を察するしかなければ、
誘っているような目線とも云えなくは無いだろう。
広告には、創り手の意思と受けての意思というものが存在し
作り手は、ピンクのバス、そして制服を着て振り返るという仕草のセットに
「新学期」という連想と意味が込められてポスターが作られたらしいのだが。
しかし、受け手の児童ポルノ・性的表現を扱う女性作家には
このポスターが、不愉快な広告に見えたらしいのだ。
またそれに賛同する意見が多数出されて、制服姿で振り向かせようとする意図を感じる
ルッキズムの意識を植え付けてしまうなどの意見などが出て
ツイッターで炎上したのだ。
私は、なるほど~そういう意見もあるのか?
またステレオタイプという
「思い込み、偏見、差別、認識、固定概念」
という言葉があることも知った。
ウクライナのニュースの中で、
手足を切断しても前向きに戦地に復活するなどという内容を知った時
馬鹿なプーチン1人の意思だけで、どれだけ多くの犠牲と苦しみと悲しみと
あらゆる負の感情が生まれているか計り知れないというのに・・・
そんな戦時の中では、女児のポスターなどは希望の光にさえ
思えてしまうのではないだろうかと思うのだが
そして、イスラム教のように顔を隠す文化から見れば、オープンで自由さを感じさせるだろう。
また、アジア人からすれば、身長が高く、目鼻立ちがスッキリして
外国人特有の魅力が羨ましく思えてしまうことだろう。
対して、オーストラリア在住では、
「性的」目線という見解に至るのは、
やはり平和という時代背景と土地柄的な環境が産んだ
豊かさが象徴する多様性という意見の一つでもあろうと思う。
ステレオタイプの我が意見で云わせてもらうと
本来、世界は男性と女性とに遺伝子が分かれているにも関わらず
それを認識し、西欧列強に追いつくべく近代化には、
男性と女性が結婚をして子供を増やし経済拡大をせなばならないと決めた
昭和初期の法律も今では1990年代意向のフェミニズムの波から始まって
今では、社会通念上は、近年男性同士でも女性同士でも結婚が出来ますよと法改正されたり。
またそれに乗じてLGBTQ+という言葉が一気に広がり浸透した社会となり、
それをルッキズム的に差別することの方が
批判される令和の時代になって、恐ろしい。
昭和なら、気持ち悪いとか、ヤメロとかの意見が大多数だったはずだが
今は逆に、何が悪いの?という時代だ。
市民意識とは恐ろしく、時代に合わせていかないと私のようにステレオタイプと分類され
社会の端の方に追いやられてしまうだろう。
日本社会の最頻値の意見についていかなければならないから、日頃からニュースを見たり
知人と擦り合わせて認識を徐々に変貌させていかなければならないのが、
現代の生きていく上での難しさの一つでもあろう。
アニメ異世界生活などの登場キャラクターを、
児童ポルノの専門家に見せたなら、日本はきっと、
ミニスカート、フリルが付いたもの、ロングヘアー、露出度が高い衣装
アニメ、などなど・・・全てがポルノ化していると言われるのだろう。
ここ数年は、陸上や、体操、水泳などのスポーツ写真ですら、
性的描写であるという認識で
カメラで撮影することすら出来なくなった時代に入った。
確かに意図的に撮影する意思があれば誰でもそういった写真が撮影できるだろう。
なら、初めから服など脱がずにやれば良いし、髪も伸ばさないほうが良いだろう。
そもそも水泳や新体操、シンクロナイズドスイミングという競技も無くせば良い、
と思うのだが、彼女らは、それが正装だと認識しているし、
その姿でテレビで多くの人に見られる意識を持っている。
競技として見るのか?
性的描写として見るのか?
ボディービルダーの肉体美も同様に、どういう目線で見るのかが難しいと言えるだろう。
また最もいつも気になるのが、女性が性の対象になり、男はなり得ないという点が面白い。
つまりは
女性の被害者意識が強い人こそ、性的描写に敏感に反応してしまうのかもしれない
ということを考えると、自意識過剰か、それとも
それらの社会通念上の道徳意識が偏っていたり、もしくは不足しているのか?
または
幸せなお嬢様世界に暮らしている住人なのだろうとも想像してしまうのだ。
貧乏人や路上生活者などは、そんなことに目もくれないだろう。
裸で女性が笑って向かってくれば、話は別だが、
逆にそういう場合は身の危険を感じて逃げてしまうだろう。
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大体、性的犯罪者は警察官とか、学校教員、政治家のような
いわゆる立場のある方々に多く存在し、なぜなら
日頃の規範的抑圧的生活の中から生み出される現実逃避やら妄想思考らが、
もしくは、抑圧された幼少期が抜けた分を精神的に補おうとして
対象が児童になる場合があって、
児童を性的に見るようになるのには、必ずと云っていいほど・・・
理由があるはずだ。
つまり、私から云わせてもらえば、人間の生い立ちという時系列の中の障害部分が
どこにあったかをはっきりと示し、それが占める部分が、
その人の嗜好でもあるように思う。
マザコンとかファザコンと云われる者は、自立を阻まれてきた
日本独自のカンガルケアーと呼ばれる風習や、長男主義が背景にあり
長男には上げ膳据え膳なのは、なぜか?
それは自立させない為の日本の風習であり、自立できないから実家に残り
嫁を取り、一族の土地を守り、墓を守らせ、税金払う・・・犠牲者的、役を担って居るのだ。
そう云った背景を知らずに、ただ可愛いからと息子にアレコレ手をかけ
自立を阻めば、当然の如く結婚など出来るはずもない。
そして、成長期の思春期が奪われて、歪んだ嗜好を作り上げてしまうこともあるのだろう。
また、必ず人は、自浄作用という行動を取ることが多い。
私もその一つを自分自身で知っている。
それはバイクだ。
皆が大学生の頃に北海道にツーリングに行っている時に、
私は運悪くバイト帰りに、バイク事故を起こしてしまい
その骨折の影響で腰痛にヘルニアに悩みながら
アルバイトに必死だった。
彼らが羨ましく、歳を重ねて、身体が絶好調になってから
登山を始め
更にはバイクに乗るようになったし、北海道に行くようになったのは
若かりし時代の穴埋めを、今になって青春時代の一コマを取り戻かのように
やっているようにも思ってしまう。
つまり、人間は、抑圧されたまま死を迎えるのか?
それとも、自分自らが人生の修正を行いつつ、幸せだったという認識に至るまで
行動変容させつつ生きようとするのか?
その中に、児童ポルノという概念が入っているような気がする。
あくまでも私の認識では・・・。
だから、恋愛はいっぱいした方が良いのだ。
恋愛歴が少ない、付き合った経験がないと、妄想だけが膨らんでしまうだろう。
だから、結果的に男も女も無いのだという認識に至るまで付き合った方が良い。
多くの既婚者はそれに気がつく。
結婚前は憧れでトキメキがあったが、30年もすればトキメキよりもめんどくさいお荷物
情があって別れられない。
・・・
結婚が人生のピークであり、結婚すれば地獄へまっしぐらという言葉もあるように
トキメキから地獄まで全てを知りえることが必要であり、
一生トキメキを維持することは難しく至難の業だろう。
今回は、性的目線という部分を切り抜いて、自分なりに深掘ってみたつもりですが
それ以外にも様々な意見があるでしょう。
アラトゥエ、アラサー、アラフォー、アラカンなどという言葉があります。
なぜ?そのような言い方をするようになったのか?
と気になって自分でアレコレを考えてみたことがあります。
アラトゥエとはつまり、20歳前の10年間、つまりは10歳から20歳までを指し、
アラサーは20歳から30歳までを指すが、多くは25歳から30歳前までをそう呼ぶのだろう。
つまり、何を言いたいかと云うと、年齢的価値表現をしているという訳です。
顔や形、身長や収入などではなく、年齢的価値のことを指すのです。
50代の男性が、20代女性を好きになることもあるでしょう。
しかし、実際は社会的背景を生き抜いてきたというと表現が硬いですが、
TVアニメやドラマなどを同時期に体験していた人々、それだけで話は合います。
男女7人夏物語のあの部分は楽しかったよね。とか
チューブは夏に欠かせないね。・・・などの価値観は
ある意味では世代や年代の共通の価値意識でもあるでしょう。
つまり、アラサーなどという言い方は、社会背景を絞って、
性的対象を絞った言い方でもあるように思うのです。
男性同士で、アラサーとか言いませんし、女性同士でも同様です。
通じるのは異性への働きに最も有効的に通じる言い回しです。
性的な表現が、レトリック手法的に、直接的ではなく、間接比喩的になっている言葉だと思います。
そういう意味では、この言葉たちも「性的表現」とも捉えられるでしょう。
なかなかにめんどくさい時代になってきたものです。
そんな風に思い、今日はこの辺で終わりたいと思います。
最後までめんどい記事にお付き合いいただきましてありがとうございました。