境界知能に溢れる社会 | 独学の道Ⅲ

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自分で自分を変えることは、到底無理なことかもしれないが、それに望む気持ちの自力論は高尚で偉大である。仮にその結果が甚だ振るわなかったとしてもだ。By幸田露伴(努力論言葉より)

昨年の記事で保育所の所長が境界知能だったという件

 

 

 

熊谷市立保育の全園児の3分の1が心理虐待を受けたという記事

 

 

ふと、いろいろな部分が気になって考えてみる・・・。

 

まず、児童がそれほどバカなのか?

 

その児童の家庭がそれほど劣悪環境なのか?

 

そして、一番は保育所長はどうしてそう思ったか?

 

である。

 

最近、発達障害とか境界知能という部分が注目されており、

 

35人のクラスに、その対象者は5人は居るとされている。

 

 

そして、それを全国に目を向けてみると、毎年の小学生の卒業者数は605万人

 

中学生の卒業者数は318万人だとされている。

 

そういった統計から予測してみると、

 

7人に1人は一般的知能指数よりも劣ると考えられる訳だから

 

毎年86万人が社会に出て働いていることになる。

 

 

 

10年で860万人などという計算になる。

 

 

 

当然、それらの人々が子作りをして保育園に預けている訳だが

 

以前の昭和の概念と今で云う所の偏見マウントで云わせてもらえば、

 

相当の収入がある三世帯家庭は定率支払いの幼稚園へ、

 

収入の低い家庭・共働き核家族家庭では収入割で安くなる保育園へという関係性を鑑みれば、

 

当然、境界知能家庭でのお子さんだろう事は誰しもが予測のつくことだろうから

 

今更、DNAが問題だとかバカ頭だとかという事を言うこと、考えること自体が

 

大人として、また保育業を生業とする者として、

 

また社会福祉の精神や幼児教育の精神として・・・そもそもの不適合者であり

 

よくもこんな低能判断な保育者を園長、所長としたものだと思ってしまう。

 

人手不足だからこそ、主張したもの勝ち的に上に行きやすい構造なのだろう。

 

そして、マウントを執った所長本人が、実は境界知能者で視野が狭い見方だったという

 

良い実例でもある。

 

 

大体にして、自分がエライと勘違いしてしまう人は、ほとんどが境界知能者かもしれない。

 

そういう事に気づかされてしまった事例だ。

 

 

広い世の中で、相手がバカに見えてしまう現象は、自分の凝り固まった偏見によって

 

フィルターのかかった見方をしている場合が多く、

 

決して相手はバカではない。

 

そう思えた時は、

 

自分が狭く偏った見方をしているのだと気づかなければならないのだ。

 

かつて、自分も一度だけあった。

 

めちゃくちゃ努力して学習した末に社会に出てみた時に、

 

周りの人達がなんてまぬけで怠惰で、堕落した人達だらけなんだって。

 

今思うと、社会協調性の中で自分をすり減らして人のために尽力しているから、

 

ボロボロになって疲れ果て、そんな悠長に勉強などしている暇などないことを今ははっきりと分かる。

 

あの時の自分は、自分中心に生きてきた世界観で物事を見ていたのだ。

 

 

例えば

 

お年寄りが杖を突いて歩いていることを、かっこ悪いと馬鹿にするとか

 

かわいそうな未来だと揶揄するのか?

 

その家族を何もしていないと非難するとかの考えに至ったらアウトだ。

 

それは間違っている。と断言できる。

 

本人は自立して移動しているし、家族はそれを見守る

 

という積極的介護姿勢で老いに接し、そして冷静で最大限自立を促す介助をしている

 

ことに気が付かなければならない。

 

決して貧しいとか、かわいそうだとかと思う必要はないのだ。

 

 

困っている場合に、迅速に手助けしてあげればそれで良い。

 

それ以上を行えば、気まずくなってしまうから、さらっと自然体に行うことが

 

相手を思う本当の社会福祉精神であって、感情で思う事ではないはずなのに

 

知能が低い人は、すぐにかわいそうと見下した目線で口走ってしまうことに気を付けたい。

 

改めてそんな風に思わせられた記事であった。

 

 

最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。