宗教が嫌いでもあり好きでもあり・・・やっぱり嫌いです。
嫌いな理由は、「救い」という点です。
好きな所は、人間が騙されて3000年間もの間、旧約聖書や新約聖書を背景に
様々な芸術作品が産み出され、未だにそれが続いているという事実です。
最近、ジョンマーティンの画集を買って見ています。
全てはユダヤ教旧約聖書中の想像図ですが、
迫力があって100年前に書かれたものとしては
なかなかにこれ以上のものはないのでは?と思う程です。
故に美術館に行くと、もしくは歴史的観光地に赴けば
ほぼほぼ、宗教が背景にあって創作、建築されているものが多く、
そう云う意味での宗教による人民への影響は大きいと云わざる負えないでしょう。
しかし、人が、困った時に宗教に頼るのは嫌いです。
歎異抄の親鸞聖人は「悪人こそ救われる」という思想を述べ
努力もしないのに、お願いした者、助けて!と声を挙げたものが優先して救われるというのは
どうも都合が良すぎな気もします。
そりゃ、心の救済にはなりますわな。
しかし、そんな事ではなく、
本来は困らないように、後悔しないように
自分で人生の岐路を選択し、困った時には、一旦は抗う事は諦めて
やっぱりダメだったかと反省し、
事柄に対峙する姿勢こそが
本来困らない考え方であり、納得できることなのではないかとも思うのです。
みんな、考えずに、困った時だけは助けて下さいと
神社仏閣に向かうのは、
ご都合主義的、アホな考えと行動じゃないでしょうか?
しかしながら、そういう事に気がつかず、3冊分も御朱印帳周りを
数年前までしていたのですから私もご同類
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ですから、頼まない、人を頼りにしない・・・というと語弊がありますが
依存しないという意味です。
家を建てる時など専門家に頼まなければ、家は建ちません。
ですからそう云う意味ではありません。
精神的依存を辞めるという事が、大人としての自立への第一歩ではないかと思うのです。
その人間自立を阻止するかの如く、
何でも頼ってよっていう八百万の神様が、
一番信じられないのです。
八百万の神様に人間の代わりに何が出来るっていうんでしょうか?
人生は自分が選んだ選択枝によって道筋が決められています。
困ったときは、立ち止まり、逃げずに真正面から物事に向かい合い
どうしたら乗り越えられるかに頭を使う。
必要なら専門家の意見を聞いて、実務作業を進めて前に進む。
これが出来ないと、弁護士さんお願い、全てお願い・・。
と放置、無責任となってしまいます。
ですから、絶対に他人様に丸投げして頼まない、
自己責任、自己解決という事を念頭に
生きる習慣を付けていかなければならないと思うのです。
結局、どう生きたいのか?という軸が決まらなければブレブレになって
人の意見を聞いて、自分の立ち位置を決める
という生き方しか出来なくなってくるように思います、
だから人生が他人によってブレまくっている人は、
ある程度の人生軸を決め、ここで満足
という目標を決めてやる必要があるのかもしれません。
今後も世界は、宗教と戦争と資本主義による人民奴隷からの搾取が続くでしょう。
搾取されるのは、考えないでお願いばかりしているから金がかかるのです。
自分で考え、最低限の搾取で幸せを手に入れられるように努力していきましょう。
と自分自身に言い聞かせ振り返っている今日この頃です。
~タバコ・アルコール依存患者より~
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