美への逃避 | 独学の道Ⅲ

独学の道Ⅲ

自分で自分を変えることは、到底無理なことかもしれないが、それに望む気持ちの自力論は高尚で偉大である。
仮にその結果が甚だ振るわなかったとしてもだ。
By幸田露伴(努力論より)


最近と云うよりも、後半生と言ったほうが正確だろう

 

我が家は、各人が自営業者。

 

祖母、祖父、父母・・・かくいう私も1人の半農業を行う自営業者でもある。

 

祖父たちは戦時中を生き延びた兵隊であったせいもあるかもしれないが

 

責任感が強く、ごり押し剛腕という経営で、したたかさを嫌った。

 

 

竹を割るような性格の我が家系だ。

 

 

私は、いつしかプレッシャーをかけられて、

 

それに常に反抗していた。

 

 

若かりし頃は、人こそが力とばかりに協力者を増やしたが

 

アドバイスや支持をされ続けるうちに、傀儡している事に嫌気がさし

 

その後は、理解者を誰1人作ろうとせず、独り殻にこもってしまった。

 

 

これ以上アドバイスを聞くと

 

胃が裏返り、そして胃液を吐いてしまいそうになる程、意見を重く捉えてしまうのだろう。

 

もう限界だったのだ。

 

 

そんな時、何も言わずに、ただ、そこにたたずむ絵画や銅像には、

 

不思議と安らぎを感じたのだった。

 

芸術とは、自分の思うように思えばいい。

 

当時はそう思っていた。

 

 

しかし理解が深まっていくと共に、その意味の重さに、

 

自分の境遇よりも遥かに大変な時代に作られていた背景を知り、

 

自分の立場にはまだまだゆとりがあって、自由に生きているということを感じられ、

 

今の現状に感謝せざる終えなくなるのだった。

 

 

不思議なもので、物言わぬ美術品に諭され、そして心が救われるという現象が

 

博物館とは意味合いが違う事にアラカンになってようやく気がついたのだった。

 

 

美とは、他人が魅了される様を指すが、

 

肥満や病人に対して美意識を抱くだろうか?

 

 

美とは、自分を律した先にあり、人の様々な理想的目標の一端が美であるように思う。

 

 

美とは努力の末に辿り着いた尊いもので、

 

それが故に、人は美というものの背景を想像して手を合わせてしまうのだろう。

 


文章表現に於いては、耽美派、白樺派、新現実主義派などなどがあり

 

絵画表現では、新古典主義、ロマン派、印象派、写実主義などなどがあり

 

美の方向性が違う。

 

それぞれの端にあるのが、それぞれの名称が付く美なのだ。

 

 

 

自動車で云えば、昭和の頃の四角く角ばったデザインの自動車が美しかった。

 

その後は、日産のシーマに代表されるように、女性の社会進出における象徴とも謂えるべき

 

丸型のデザインの自動車が現れ、日産マーチなどは看護師達に大うけだった。

 

 

現代では機能美とばかりに、シンプルイズベストな操作系やセンターパネルを配し

 

ハイブリット車が、車の象徴ともされている時代になっている。

 

 

美の行方は、その時代を象徴しているようだ。

 

 

しかし美には、可変な美と不変の美、そして普遍の美が存在するようにも思える。

 

 

移り行く人の心を表す自動車デザインのようなものから

 

躾や態度、身のこなし方などの普遍の美のようなものから

 

健康を表すビーナス像のように、永遠の健康美を

 

いつの時代も、誰もが求める不変の美と云うものまであるように思うのだ。

 

 

こんな風に美と云うものについて考えている時間は、

 

私にとって現実逃避する至高の時間だ。

 

 

美ほど現実逃避できるものはないだろう。

 

 

という事で、今日もついぞ現実逃避してしまいました。

 

 

www

 

 

本日もお付き合いいただきましてありがとうございました。