私は大杉漣さんの教誨師が好きであると、何度もブログに書いてきました。
改めて、時間経過を経て客観的を経て、さらに傍観者的に見てみた時に、
何故?
と思ったことがありました。
それは何故に「救済という概念が必要なのか?」と云うことです。
ハイ 今日もめんどい男になっております
救済とは、Wikipediaによれば
- 救済される場所による分類:来世救済型 対 現世救済型
- 救済される対象による分類:個人救済型 対 集団救済型
- 救済される方法による分類:自力救済型 対 他力救済型
これは、生の世界での心の苦しみを、死というものによって償い、救済できると
考えるところから始まった自裁を他人に委ねる安楽死という救済方法だと考えれば、
ある意味での現世救済型とも云えるかもしれません。
同様に
死は救済であると思いますか?
現世救済型と云えるのですが、死では救済されないと反論する人々は仏教や
キリスト教などの信仰によって、
望む死ではない運命死を持って、極楽浄土経て来世で救済されると信じている人々であり
キリスト教でも、自裁を除く死をもって第3の救済が果たされるとしています。
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話を聞いてわかる人がどれだけ居るんだろうという世界観があって
0.0001%の意見かもしれませんが、一つの問題提起としてカウントしておきましょう。
また、社会的弱者救済に対する人類の成熟史上での
普遍のベーシックテーマを掘り起こす人も居ます
縄文時代には狩猟時代であり、移動する文化で身体の弱い
付いて来れない衰弱した弱者は切り捨てられてきました。
しかし弥生時代の永住型農耕生活によって、身体の弱い者でも
米という糧を得て、生活するようになってからは、
弱者の生存も許されるようになってきたという生命救済の歴史があります。
その生命救済は、今では社会保障という言葉で、年金、医療、生活保護などの名目で
国家での救済を行っています。
私が興味を持つのは、心の救済という部分ですが、
大杉漣さんの教誨師では、死刑囚に対して、生前に裁判での罪を認めるのは別として
エゴ以下の部分での救済を目指している部分に興味が注がれます。
人は、心閉ざし、上辺の会話は出来るけれども、
なかなか人には話せないコアな部分も持ち合わせています。
両親でも、奥さんでも、親友でさえも話せないことはいくらでもあります。
そのまま棺桶まで持っていくという人も多いはずです。
しかし、その部分の束縛を開放されたなら、この世で心は救済される訳です。
思い残すことはないという生前救済を行ってから死を迎える事と
棺桶まで持っていき、死こそが私の本当の救済と考えるのかは
全く別物のような気がしています。
ココに、宗教という導きが大きく影響しているのだと思いますが
この、現世救済型VS来世救済型問題は、
もう少し社会が成熟してこないと、考える人が増えてこないような気がします。
そして、もう一つ大きな問題があります。
それは自力救済型VS他力救済型です。
自力救済の代表は坊主・僧侶になり悟ることです。
日々考え努力して自分自身の存在意義を確立させることで大方の救済は可能になるでしょう。
また、宗教を信じる信仰心によって、他力救済があるのですから
統一教会で話題となった山上容疑者ですが、
その母も他力救済に寄付をして家庭を破綻させてしまった訳ですが、
山上容疑者は他力救済を悪であると捉え、哲学的自力救済志向が強かった為か
安倍晋三殺害を犯してまで、
世の中に他力救済の危険性を知ってもらおうと行動に至った訳です。
考えることをしない人々がいる限り、他力救済の罠(新興宗教まがい)は
これからも増えていくことでしょう。
原点回帰で、救済は必要なのか?ですが
社会的救済が無ければ現代の社会は回りません。
そして産業としての側面と役割も担っています。
そして心の救済として宗教が存在します。
健康な人ばかりで、全員が毎日現金を手にすることが出来て、
死ぬまで生活できたなら社会保障は要りません。
また健康で病気にならなければ、医療という救済も必要ありません。
また、悩みがあって、自己解決できる人がいれば宗教は要りません。
病気・退職して年金老人・悩みが解決できない人・・・が居る限り
救済という概念は益々必要とされていくのでしょう。
江戸の昔は、生前救済が出来ない時代であった為に死後救済という概念が普及して
お盆という風習が生まれたものと考えます。
今の時代は生前救済が可能な時代となりました。
ならばやはり大杉漣さん役する教誨師は
必然であり、また必須で必要なのだと考える今日この頃なのです。
こんなことを書くと宗教は必要なものとして認めているフシがありますが、
そこにロンギヌンスの矢を貫いたのは日蓮上人ですが、
私は「悪人こそ救われる」と説いた親鸞派ですので、
「嘘も方便で全員の救済を行う」と説いた日蓮さんの強引なやり方は納得できません
という一言を付け加えて置きたいと思います。
とディスるのは日蓮さんの得意技であり、他の宗教は決して比較や非難をしませんでした。
そういう意味では私もあれとは違う、これとも違うなど比較している部分は
日蓮一派なのかもしれませんね。
元の木阿弥
ハイ話が違う路線になりかけそうなのでこの辺で
今を一生懸命生きている人々にはあまり理解できない話題だろうと思いますが
人生を暇つぶし的に楽しんでいる私にとっては、
こういう話題ってものすごく心躍るんですよねwww
本日は本当にめんどくさい事を書いてしまって申し訳ありませんでした。
ちょっと自分の中で、整理をしたかったもので書いてみました。
本日もご覧いただきましてありがとうございました