今朝も久々のジョギングにでかけました。
明治バームパウダーの高い方・・・アスリートの方を飲んだので、
歩いて終わるのはもったいないという・・・いやらしい気持ちもあったから
少しは走ってみようと思い、走っては歩き、また走りと
スロージョギングを7Kmほどやって居る最中のことです。
朝5時30分だというのに、墓の前にはいつもは無い軽自動車が路駐されており
チラホラと墓掃除をしているではないですか。
また、田んぼの用水路の雑草の始末や、若干の用水路の掘り上げらしき事
また、違う部落の寺には30台ほどの軽トラックが集まり、草刈りと
雑草の処理を軽トラックいっぱいにしている様子で・・・
さながら祭りのような賑やかさでもありました。
これらの光景は7kmもぐるっと走っていれば、アチラコチラで一斉に見られました。
お盆を数日後に控えた、日曜日だけあって、
おそらく山形県内・・・何処もかしこも寺や墓が賑わって居ることでしょう。
そんな中で、私は呑気にジョギングを楽しんでいるのです。
自分の家の墓を横目に置き去りにして・・・・
お盆には死んだ人の魂が、現世に蘇って来るという。
そして、提灯をぶら下げて墓へと迎えに行き、
そして自宅へと灯りを先導にぞろぞろと見えないご先祖様達を引き連れて
帰って来るのです。
それを信じている日本人は多いことでしょうし、またそれを社会的口実として
都会に暮らす血縁を田舎へと引き戻し、久々の再開を得る機会にしている場合もあるでしょう。
偏屈な私は、昔は・・・義理堅く、昔からある風習は守らなければならない、絶対。
というほどまでに古臭い男でした。
都会の学校に上京し、東京のお盆は7月という事を聞き、
ふざけんな!!!お盆は8月だろう
って思うほどに頑なでしたが、創価学会、統一教会、などなど・・・
社会人として働く中で様々な宗教を信じている人々に出会い、
職場仲間として、考え方を知れば知るほどに、
宗教概念という洗脳から逃れ、
例えて云うなら、
結婚相手はAさんとBさんとCさんと好きだけど誰にアプローチしようかなぁー
どう思います~悩みませんか!?・・・なんて話をしていると・・・
何故悩む必要があるんですか?
もう決められているじゃないですか
私も悩む必要はないと思いますよ。
全てはご縁ですから・・・
いやいや
少しは悩みましょうよ、一生を共に過ごすんですから・・・
・・てな会話で、宗教の人と話しているとイライラするんです。
悩まない(考えることを放棄している)ことに対して・・と
経典にそう書いてあるとかなんとかを鵜呑みにしている所など・・・
人間は悩む生き物で、その決定権は自分にあるのだとばかりに・・・
自分だけは中立・無宗教こそ正義だと思うようになっていったのです。
今は、地域貢献・奉仕活動と捉えて、一度は神社の総代をさせていただいておりますが、
これについても甚だ疑問を持ちながら、総代の中でも、唯一の左派の立場は変わりません。
死んだ人の魂が戻ってきてもらっては困るのです。
そして、故人を思い出すということは、
あの人だったならこういう風に考えて、こう話すだろう・・・
また、祖父ならこうしていただろうなどと
1人ずつの故人の記憶が蘇ってきて、死をもって呪縛からの開放を得たというのに、
また心の呪縛の世界に引き戻されかねないのです。
仏教では、あの世100年を経て輪廻転生する為に道を歩んでいる人の魂を
いちいち現世に引き戻してはならないと考えているフシがあるから、
私はどういった洗脳をされてきたのでしょうか。
私は仏教道に一貫性を求めているのだろうと思うのです。
宗教とはつまり心の拠り所であって、考える力の無い人々を導く教えが代表的ですが
昔ならいざ知らず、現代の多種多様な教育を受ける機会があり、
また更には情報も散在しており、高度な客観的学習機会も手に入る時代でもあります。
考えることを止め、ただ知ることのみの寄せ集めを実証主義的風潮と呼びますが
経験的ではなく、知識としての安楽を得て生活をしている人々にとっては
坊主が語る宗教概念というものはありがたいのかもしれませんが、
考え抜く力のある人々にとっては、宗教とは偏見でしかない概念だと思うのです。
今で言うところのプロバガンダとでも呼べばよいのでしょうか
その偏見の一つとしてお盆があり、死者の魂がこの世に蘇るとあって
人々をお盆期間に縛り付けられているのです。
お盆だからみんなが集まる、お盆礼。
日本の一つの季節的習わしが、ひな祭りでもあり、お盆というのならば致し方ありませんが
もう一度考え直して、お正月とは?
キリスト教が2022年前に決めた西暦によって、毎年新年をお祝いしていることに
疑問は感じないでしょうか?
春分の日とは?
グレゴリオ暦との折衝でニケア宗教会議で決まったことなど
成人の人とは?
奈良時代より始まる元服の儀によって、母親の元を離れて、
父親と共に戰場に初陣加担しても良いとされた儀式の一つでもあり
人殺しの許可を広く伝える意味もあったと考えると恐ろしい。
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などを考えて見る必要があるかもしれません。
などと思って、宗教色の色濃いお盆というのは、何となく好きになれない自分がいるのです。
とは云え、家族にはそんなことは話していませんので、
建前上、いつも通りにお盆期間は墓掃除と墓参りに行く訳ですが、
本音は述べた通りです。
余り考え過ぎると、様々に区別してしまって生きづらくなって、良くないかもしれません。
流されて生きるという考え方を学習した方が・・・私には良いのかもしれないと思いつつ
本日のブログを締めたいと思います。
本日もわたしの戯言にお付き合いいただきましてありがとうございました。